ネーチャー、ノーツ・エンド・キーリス
小生はその頃、度々『ネーチャー』に投書いたし、東洋にも(西洋一般が思うところに反して、近古までは欧州に恥じない科学が、今日より見ると幼稚未熟ながらも)あったことを西洋人にも知らしめることにつとめていた。これを読んで欧州人で文通上の知己となった知名の人が多かった。
そのひとりに当時ロンドン大学総長であったフレデリック・ヴィクトル・ディキンズ氏がいる。この人は幼いときに横浜に来て、東禅寺で茶坊主をしていたことがある。梟勇の資質があってきわめて剛強の人である。後に横浜で弁護士と医師を兼ね、日本の書物とあれば浄瑠璃、古国文学から動植物までも世界に紹介し、日本協会がロンドンに立つに及んでその理事となり、加藤高明氏(その頃の公使)の乾杯辞に答えたことなどがある。
この人は小生が度々『ネーチャー』に投書して東洋のために気を吐くのを不思議に思い、1日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔して、氏が度々出版する東洋関係の諸書諸文はみな小生が多少校閲潤色したものである。
なかんずくオクスフォード大学出版の『日本古文』は、『万葉集』を主とし、『枕草子』、『竹取物語』から発句にいたるまでを翻訳したもので、序文に、アトスン、サトウ、チャンバレーン、フロンツとともに小生に翼助の謝辞を述べている。
このディキンズ氏の世話で、小生は英国第一流の人に知己が多少あるようになった。『ネーチャー』に出した「拇印考」などは、いま列国で拇印指紋に関する書が出る毎に、オーソリティー(権威)として引用されるものである。
明治31年頃より小生は『ノーツ・エンド・キーリス』に投書を始め、今日まで絶えず特別寄書家である。これは76年前に創刊されたもので、週刊の文学兼考古学雑誌である。
この度ご質問くだされた「日本に綿の神はあるか」もしくは「いずれの国かに綿の神はあるか」というような難題が出るときは、この雑誌へ問いを出すのだ(無料)。そして、読者のなかから博識天狗の輩が争って答弁を出す。
むかし英米諸国で日本の商船に丸という名前をつけることに種々(日本の海軍と海運との関係について)疑念を抱き、この雑誌に問いを出した者があったとき、小生が答文を出したのを(1907〔明治40〕年8月および11月)海軍大将イングルフィード(『ロイド登録』の書記職)が見て、きわめて重要なものとして、ヒル氏に提要(要点・要領をあげ、示すこと。また、その書物)を拵えさせ、大正5年6月13日の『ロイド登録』に載せさせた。
これは何でもないことのようだけれども、日本政府が船名を、あるいは丸、あるいは艦と付けるのを制して、商船に限り必ず丸を称させることについて、いろいろと飛んでもつかない考えを抱いた外人が少なくなかったが、この登録の文が出てからこのような懐疑が一掃されたのである。
(普通には船の丸の名を付けるのは征韓役1591年に九鬼嘉隆が作った日本丸を嚆矢とすると思う人が多い。しかし、それより先に1578年、信長が九鬼の日本丸を見たことがあり、また1584年家康の清須丸と九鬼の日本丸と戦ったことが『武功雑記』に見える。しかしながら、1468年に成った『戊子入明記』を見ると、当時足利政府から支那に送った船には10艘までみな丸という号を付けている。これらのことはその後、何の書にも見えているが、小生がこれを明言するまでは知らない人が多かった。)
貴下もご存知の通り『ロイド登録』は世界を通じて船舶に関係ある者必読のものである。それなのに我が国は大正5年にすでに外人がこのような提要文を出してあるのに気づかず、今も船を丸ということについて中米、南米また北米諸国でいろいろ日本船について妙な評判を聞くと驚き、さて我が国の学者に問うても何という取り調べもしていないので、何が何だかわからずにいるようなことは、この他にも多い。じつに自ら侮って、後に人に侮られるものというべきことだ。