孫文
Sun Yat-sen Memorial / Prince Roy
右のダグラス男爵の官房で初めて孫逸仙(※そんいつせん。孫文※)と知人となった。逸仙方に毎度遊びに行き、逸仙はまた小生の家に遊びにきた。
逸仙がロンドンを去る前、鎌田栄吉氏を下宿へ連れて行き、岡本柳之助氏へ添え書きを書いてもらった。これが逸仙が日本に来た端緒である(その前にも一度来たが、横浜ぐらいに数日留まっただけである)。マルカーンとかいうアイルランドの陰謀士がいて、小生とこの人と二人、逸仙の出立にヴィクトリア停車場まで送りに行った。逸仙は終始背広服、こんな平凡な帽子をかぶり、小生が常にフロックコート、シルクハットであったのと反映した。
明治34年2月頃、逸仙が横浜の黄(ワン)某〔温炳臣〕を連れ、和歌山に小生を尋ねてきたことがあった。前日、神戸かどこかで王道を説いたとき、支那帝国の徳望が今もインド辺で仰がれていることを述べたが、これは小生がかつて孫に話したことを展開させたもので、つまり前述の山内一豊が堀尾忠氏の言葉を採ったのと同じやり方である。
小生はかつて前日まで鉄相であった小松謙二郎氏に荒川巳次氏(当時のロンドン領事)宅で会い、談じたことがある。真言仏教(またユダヤの秘密教などにも)で、名号ということを重んじる。この名号ということはすこぶる珍なもので、実質のないものでありながら実質を動かす力はすこぶる大きい。
今ここで宇宙の玄妙な力が行なわれる現象を呑み込んで、阿弥陀仏と名付けるとせよ。この名号を聞く者は次第にこの名号に対して信念を生じる。ついには自分にわかりもしないこの信念のために大事件を起す。一向徒が群衆蜂起して国主武将を殺し尽くしたように(越前・加賀の一向一揆の例)。
そのようにトルコ、支那、ローマなどの諸国は昨今は、強弩の末(※きょうどのすえ:強い弩(いしゆみ)で射た矢も、遠い先では勢いが弱まること※)で、風呂敷一枚を貫く力もないものである。
しかしながら、近年日清戦争が起こると聞いて、ブータン(インドの北にある小国。これは康煕帝に征服されたことがある)の土民が4、5人、義兵のつもりでわざわざ数ヶ月難苦して積雪のなかを歩き北京に赴き、支那の官憲は大いにありがた迷惑に感じて、1日50銭とかを支給してこれを礼遇していたと聞く。
これは支那という国は弱まっても、その名号がまだ盛んに世界に残っている証拠である。(孫はさすがにこのブータンの例は引かず、別にカシュミルなどの例を引いたと記憶する)。
名号とは、一国民や一種族が続く間、その脳の底に存在する記憶で、national reminiscence ともいうべきものである。我が国にも田舎には至る所、今日まで蒙古(モクリ)、高句麗(コクリ)といって蒙古と高麗を恐ろしいもののように一般に思い、西洋でも何のことともわからずに、Gog and magog(ゴッグ・エンド・メーゴッグ)という野民の来犯を恐れる(おかしいことには、ロシア人はトルコ人を、トルコ人はロシア人を Gog and magog と心得ている)。
近時大戦中に連合国人はみなドイツを The Huns と呼んだ。実はハンスはドイツ人と何の関係もないものであるのに。これらのことで、事実とはまったく違いながら、この名号というものが、国民の気風や感情を支配し左右する力はきわめて大きなものであると知られる。