ダグラス(Douglas, Sir Robert Kennaway)
ダグラス(1838〜1913)。英国の中国学者。
中国領事館に勤務。その後大英博物館へ。東洋書籍部の初代部長を務めました。
大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た南方熊楠(1867~1941)と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠に東洋書籍部の仕事を手伝わせることとなりました。
南方熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こし、その度にダグラスが事態の収拾に当たりました。
ダグラス
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳7)
大英博物館では主として考古学、人類学および宗教部に出入りしただ今も同部長であるサー・チャーレス・ヘルチュルス・リード氏を助け、またことに東洋図書頭サー・ロバート・ダグラス(この人が大正と改元する少し前に40年勤続の後に辞職したのを、世界中の新聞で賞賛が止まず、我が国の諸大新聞でも何のことやらわからずに、誉め立てていた)と、われなんじの交わりをなし、『古今図書集成』などは縦覧禁止であったが、小生に限り自在に持ち出しを許された(『大英博物館日本書籍目録』のダグラス男爵の序に小生の功績を挙げている)。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳8)
右のダグラス男爵の官房で初めて孫逸仙(※そんいつせん。孫文※)と知人となった。逸仙方に毎度遊びに行き、逸仙はまた小生の家に遊びにきた。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳07)
しかしながら、アーサー・モリソン氏(『大英百科全書』に伝記がある。八百屋か何かの書記から発奮して小説家となった、著名な人である。今も存命であろう)が熊楠の学才をはなはだ惜しみ、英皇太子(前皇エドワード7世)、カンターベリーの大僧正、もうひとりはロンドン市長であったか、三方へ歎訴状を出し(この三方が大英博物館の評議員の親方であっため)、サー・ロバート・ダグラスがまた百方尽力して、小生はまた博物館へ復帰した。このとき加藤高明氏が公使であった。この人が署名し一言してくれたら事は容易であったはず、よって小池張造氏を経由して頼み込んだが、南方を予よりもダグラスが深く知っていると言って加勢してくれなかった。今度という今度は慎んでもらわなければならないといって、小生の座席をダグラス男爵の官房内に設け、他の読書者と同列させなかった。これは小生がまた怒って人を打つのを慮ってのことである。小生はこのことを快からず思い、陳状書をダグラス男爵に贈って大英博物館を永久に離れた。小生は大英博物館へはずいぶん多く宗教部や図書室に物を献納した。今も公衆に見せているだろう。高野管長であった土宜法竜師が来たとき小生が着ていた袈裟法衣なども寄付した。
ダグラス男爵に贈った陳状書の大意は、日本の徳川氏の世に、賤民を刑するのにも忠義の士(例えば大石良雄)を刑するのにも、等しく検使また役人が宣告文を読まず刑罰を口で宣言した。賤民は士分のものが尊き文字を汚して読み聞かすに足らぬもの、忠義の士はこれを重んじるあまり、将軍の代理としてその言を書き留めるまでもなく、口より耳へ聞かせたのだ。さて、西洋はなにか手を動かすと、発作狂として処分するのが常である(乃木将軍までも洋人はみな発狂して自殺したと思う)。日本人が人を打つにはよくよく思慮して後に声をかけて打つので決して発狂してのことではない。いま予を他の人々と別席に囲ってダグラス男爵監視の下に読書させるのは、これは予を発狂のおそれあるものと見てのことと思う人は多く、予を尊んでのことと思う人は少ないであろうから、厚志は千万ありがたいが、これまで尽力してくれた上はこの上の厚志を無にせぬようにもう当館に出入りしないと言って立ち退き申した。たいてい一代のうち変わったことは暮らし向きから生じるもので、小生はいかに兄が破産したからといって、舎弟が、小生が父から受けた遺産があるのに兄の破産を口実にして送金しなかったのを不幸と思い詰めるあまり、おのれに無礼したものを打ってしまったのだ。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その3)
予往年ロンドンに之きし時、この事をユールに報ぜんとダグラス男に頼むと、ユールは五年前に死んだと聞いて今まで黙りいたが、折角の聞を潰してしまうは惜しいから今となっては遼東の豕かも知れぬが筆し置く、この※[#「虫+冉」、228-5]蛇もまた竜に二足のみあるてふ説の一因であろう。