孫文(そんぶん Sun Wen)
孫文(1866〜1925)。号は中山、名は文、字は逸仙。中国の政治家、革命家。初代中華民国臨時大総統。
南方熊楠(1867〜1941)が初めて孫文に会ったのは、1897年3月16日、大英博物館の東洋図書部長サー・ダグラスの部屋で。6月30日に孫文がロンドンを去るまで毎日のように二人は出会い、議論を闘わせました。
1900年9月に熊楠は帰国。熊楠は、孫文が日本に潜伏中であることを知り、孫文と連絡を取り合い、翌年2月、孫文が和歌山にいる熊楠のもとを訪れました。
この後、1911年、辛亥革命により孫文は臨時大総統に推され、中華民国を発足させましたが、間もなく袁世凱に総統の座を譲ります。しかし、袁世凱による独裁が始まると、反袁を唱えて活動しますが、袁の軍事力の前に敗れて1913年、日本へ亡命しました。このときも熊楠との会見を望みましたが、熊楠の健康状態が悪く実現しませんでした。
孫逸仙
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳12)
そして、この2階に来て泊まり、昼夜快談した人に木村駿吉博士などの名士が多く、斎藤七五郎中将(旅順開戦の状を明治天皇御前に注進申した人。この人は醤油を造るために豆を踏んで生活した貧婦の子である。小生と同じく私塾に行って他人が学ぶのを見て覚え、帰って記憶のまま写し出して勉学したという)、吉岡範策(故佐々友房の甥、柔道の達人、ただ今海軍中将である)、加藤寛治、鎌田栄吉、孫逸仙(※孫文※)、オステン・サッケン男などその他多い。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳8)
右のダグラス男爵の官房で初めて孫逸仙(※そんいつせん。孫文※)と知人となった。逸仙方に毎度遊びに行き、逸仙はまた小生の家に遊びにきた。
逸仙がロンドンを去る前、鎌田栄吉氏を下宿へ連れて行き、岡本柳之助氏へ添え書きを書いてもらった。これが逸仙が日本に来た端緒である(その前にも一度来たが、横浜ぐらいに数日留まっただけである)。マルカーンとかいうアイルランドの陰謀士がいて、小生とこの人と二人、逸仙の出立にヴィクトリア停車場まで送りに行った。逸仙は終始背広服、こんな平凡な帽子をかぶり、小生が常にフロックコート、シルクハットであったのと反映した。
明治34年2月頃、逸仙が横浜の黄(ワン)某〔温炳臣〕を連れ、和歌山に小生を尋ねてきたことがあった。前日、神戸かどこかで王道を説いたとき、支那帝国の徳望が今もインド辺で仰がれていることを述べたが、これは小生がかつて孫に話したことを展開させたもので、つまり前述の山内一豊が堀尾忠氏の言葉を採ったのと同じやり方である。