履歴書(現代語訳12)

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履歴書(現代語訳)

  • 1 宗像三神について
  • 2 父母について
  • 3 和歌山、東京、アメリカ
  • 4 アメリカ,キューバ
  • 5 ロンドンに渡る
  • 6 ロンドンで知り合った人
  • 7 ネーチャー、大英博物館
  • 8 孫文
  • 9 ネーチャー、ノーツ・エンド・キーリス
  • 10 落斯馬論争
  • 11 『方丈記』英訳
  • 12 ロンドンの下宿
  • 13 母と兄
  • 14 大英博物館を離れる
  • 15 帰国
  • 16 和歌山
  • 17 熊野
  • 18 かわいそう
  • 19 幽霊と幻の区別
  • 20 結婚、小畔氏との出会い
  • 21 高野山へ
  • 22 土宜法竜
  • 23 粘菌
  • 24 生きた薬
  • 25 陸生トコロテン
  • 26 青い粘菌
  • 27 僻地、熊野
  • 28 隣人とのトラブル
  • 29 法律が苦手
  • 30 弟の妻
  • 31 梅毒
  • 32 南方植物研究所設立へ
  • 33 寄付金
  • 34 山本達雄
  • 35 媚薬
  • 36 処女を悦ばす妙薬
  • 37 締まりをよくする方
  • 38 実用
  • 39 専門家の弊害

  • ロンドンの下宿



    ロンドン
    Saturday in London (2) / dicktay2000

     小生は前述亡父の鑑識通り、金銭に縁の薄い男である。金銭があれば書籍を買う。かつて福本日南が小生の下宿を訪ねたときの記録文(日南文集にある)にもこのことを載せ、何とも知れない狭くてみすぼらしい部屋に寝床と尿壷だけがあって、塵埃は払ってもなくならず、しかしながら書籍と標本は、一糸乱れず整備しているのには思わず感心した、とあったと記憶する。

    いつもその通りである。ロンドンで久しくいた下宿は、じつは馬部屋の2階のようなものであった。かつて前田正名氏に頼まれ、キュー皇立植物園長シスルトン・ダイヤー男爵を訪れた翌日、男爵より小生へ電信を発せられたが、町がわからずに(あまりに狭苦しい町なため)電信が届かなかったことがある。

    そして、この2階に来て泊まり、昼夜快談した人に木村駿吉博士などの名士が多く、斎藤七五郎中将(旅順開戦の状を明治天皇御前に注進申した人。この人は醤油を造るために豆を踏んで生活した貧婦の子である。小生と同じく私塾に行って他人が学ぶのを見て覚え、帰って記憶のまま写し出して勉学したという)、吉岡範策(故佐々友房の甥、柔道の達人、ただ今海軍中将である)、加藤寛治鎌田栄吉孫逸仙(※孫文※)オステン・サッケン男爵などその他多い。

     オステン・サッケン男爵は、シカゴの露国総領事である。公務の暇に両翅虫学 Dipterology を修め、この学問における大権威であった。この人を助けて小生は『聖書』の獅子の死骸より蜂蜜を得たサムソンの話を研究し、ブンブン(雪隠虫の尾の長いものが羽化したアブで、きわめてミツバチに似たもの)をミツバチと間違えて、このような俗信が生じたことを述べ、ハイデルベルヒで2度まで出版し、大英博物館でもミツバチとブンブンを並べて公示し、2虫間に天然模擬が行なわれていることを証明するに及んだ。このことは近日『大毎』紙へ載せるからご笑覧を乞うておく。

    このサッケン男爵(当時63、4歳)は、小生の部屋を訪れたとき茶を出したが、あまりの室内の汚さにその茶を飲まずに帰った。木村駿吉博士は無双の数学家だが、きわめてまた経済の下手な人である。ロンドンへ来たときはほとんど文無しで予を訪れ、予もご同様のため、仕方なくトマトを数個買ってきて、パンにバターをつけて食べたが旨くなく、いっそ討ち死にと覚悟して、ありったけ出してビールを買ってきて、快談して呑むうちに夜も更けわたり、小便に2階を下りると、下で寝ている労働者がぐずぐず言うから、室内にある尿壷、バケツはもちろん、顔を洗う水盆までにも小便をたれ込み、なお、したくなると窓をそっと開けて屋根へ流し落とす。そのうち手が狂ってカーペットの上に小便をひっくり返し、次第に下の部屋に落ちたので、下の労働者が眠りながらなめたかどうかは知らない。まさにこれは「小便をこぼれし酒と思ひしは、とっくり見ざる不調法なり」。翌朝起きて家の主婦に大目玉を頂戴したことがある。

    一昨々年上京して鎌田栄吉氏より招かれ、交詢社で研究所のことを話すうち、速達郵便で木村氏が100円送られたのこそ、本山彦一氏に次いで寄付金東京での嚆矢であったのだ。まかぬ種は生えぬというが、カーペットの上にまいた黄金水が硬化して100円となったものと見える。

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    「履歴書」は『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫)に所収

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