弟の妻
右の次第で小生は、南隣の主人の無法のために5年来の試験を打ち切らざるを得なくなったので、県知事はじめ友人らが、これはまったく小生が長年あまりに世間とかけ離れて仙人住まいをした結果なので、何とかして多少世間に目立ち、世の人より尊敬され保護されるような方法を講ずるべきだとのことで、協議の末に生まれたのが植物研究所で、その主唱者は拙弟常楠と田中長三郎氏(趣意書の起草者、大阪商船会社、中橋徳五郎氏の前に社長であった人の令息)であった。
しかしながらこの常楠というものは、幼時は同父同母の兄弟としていたって温厚篤実の者であったが、その妻が非常に気性の強い女で、もと、小生のような成金者のせがれと違って、代々名高かった田舎長者の娘である。にわか大名がひたすら公卿の娘を妻として誇りたいように、小生の父が亡くなった後、母が以前士族に奉公したことがあるので、せがれに旧家から嫁を取ってやりたいといって、この女を弟の妻としたのである。
その女の兄は明治19年に妻をめとり、少しの間に発狂し、今だ癲狂院に入っていて、ときどき平癒して帰休するとまた発狂して入院するのだ。その弟は発狂して人を殺した者である(その後若死にした)。そして兄の妻もまた気性の強い女で、嫁に入って来た一男一女を産むうちに、夫が発狂したため、寡居して家を守り、姑(つまり拙弟の妻の母)と至って仲悪く、数十年別居している。
この姑すなわち拙弟の妻の母もまた若くして寡婦になった者で、いろいろと醜行の評判もあり、それを気に病んで、その長男が発狂し、母の髪をハサミで切ったのだ。こんな家に生まれた女なため、拙弟の妻はまた狂人のような振る舞いが多く、何とも始末に負えず、自分の里に帰ったことはないといえば、しごく貞女のようだけれど、じつは発狂した兄の妻が気性の強い女で、姑を追い出すほどの者なので、夫の妹(すなわち拙弟の妻)を受け入れず、それがために、拙弟の妻は拙弟方にかじりついて、この家で討死と覚悟を決めているから勢いが凄まじく、拙弟が頭が上がらない。
このように、小生は久しく海外にあった者ゆえに、その間のことは一切わからない。家の伝説履歴を知った者はみな死んでしまう。小生の父母の一族は一切舎弟かたへ寄りつかず、ただただ舎弟の妻の一族だけが強いのだ。