ロンドンに渡る
明治25年に米国に帰り、その年の9月英国へ渡った。その船中にあるうちに、父は和歌山で死亡した。英国に着いてロンドンの正金銀行支店に着いたとき支店長故中井芳楠氏から書状を受けたが、それを聞き見ると父の訃報であった。この亡父は無学の人であったが、一生に家を起しただけでなく、寡言篤行の人で、その頃は世にまれであった賞辞を一代に3度まで地方庁より受けたのだ。
死に臨んだとき、高野山に人をやらして土砂加持(※どしゃかじ:光明真言を唱え土砂を加持する法。この土砂を病人に与えれば病を癒すことができ、墓にまけば罪過が消えるという※)を行なったが、生存の望みが絶えたと僧たちが申す。また緒方惟準氏を大阪から迎えて見せたが、これまた絶望との見立てであった。
そのときは天理教が流行りだしたときで、誰もが、天理教徒に踊らせて平癒した、誰それは天理王を拝したおかげで健康であるなどと言う。出入りの天理教を奉ずる者が試しに天理教師を招き祈り踊らせてはどうかと言った。亡父は苦笑して、生きる者が必ず死ぬのは天理である、どんなに命が惜しいのでといっても、人が死のうとする枕頭に唄い踊る者を招いて命が延びる理があろうか、誰も免れないのが死の一事であると言って、一同に生別して終わられたとのこと。
むかしアテネのペリクレスは文武兼備の偉人で、その一生涯を通じてアテネ文物の興隆に貢献し、ひいては西洋諸国開花の基礎を置いたと申す。しかしながら、この人が瀕死の際に埒もない守り札のようなものを身につけるのを見て、子細を問うたところ、私はこんな物が病気に何の効き目もないことを知り尽くしているが、万にひとつ人が唱える通りの効き目のあるものあれば、これを身に付けて命を助けようと思って身につけるのだと言ったとか。偉い人のわりにずいぶん悟りも悪かったと見え申す。そんな人は命さえ助かるならば乞食のぼぼでも舐めるであろう。
それに比べて亡父は悟りのよかったことと思う。ましてや何の学問もせず浄瑠璃本すら読んだことのない人にしては、今だ学んでいないといえども私はこれを学んでいると言おうか。むかしロンドンにいて、木村駿吉博士(この人は、木村摂津守といって我が国から初めて使節を送ったとき、福沢先生がその従僕として随行したその摂津守の三男で、無線電信を我が国に創設するときに大きな功績があったことは誰もが知るところである)が拙寓をを訪れたとき、このことを語ったが大いに感心されていた。この亡父無学ながらも達眼があった(故吉川泰次郎男爵なども度々その人となりを誉めていた)。
死に先立つ3、4年前、身代を半分にして半分を長男弥兵衛に自分の名とともに譲り、残る半分を五文して自分がその一分を持ち、四分を次男である小生、三男常楠、四男楠次郎と小生の姉とに分かち、さて、兄弥兵衛は好色淫佚放恣驕縦な者であるので、我が死んで5年内に破産するだろう、次男熊楠は学問好きなので学問で世を過ごすだろう、ただし金銭に無頓着な者なので一生裕福になることはできないだろう、三男常楠は謹厚温柔な人物なのでこれこそ我が後を継ぐべき者、また我が家を保続することができるであろう者である、兄弥兵衛亡滅の後は兄熊楠も姉も末弟もこの常楠を本家として帰依せよと言って、亡父は自分の持ち分と常楠の持ち分を合同して酒造を始められた(※南方酒造、現・世界一統※)。
その前に亡父が心安く行き来する島村とい富家の老人がいた。代々鬢漬け油商を業としたが、洋風が次第に行なわれるのを見て、鬢漬け油に見切りをつけ、何がいちばんうまい商売だろうかと亡父に問われた。そのとき、亡父はただいま(明治17、8年)の様子を見ると、酒造ほど儲かるものはあるまいと告げた。
総じてきわめて賢明でない人も、よく賢い人の言葉を速やかに聞き入れ実行すれば得分の多いもので、『藩翰譜』に見えた、山内一豊が関ヶ原の役で堀尾忠氏の一言を聞いて忠氏よりも速やかに実行し、それがため徳川氏の歓心を得てたちまち一躍して土佐の広大な領地を受け、今日までも子孫が大名華族として永続するようなのは、その著しい例である。
件の島村翁は亡父の言葉を聞いて躊躇せずに酒造に手を出したため、今もその跡取りが和歌山で強勢の商家である。これに4、5年遅れて拙父は酒造を始めたが、いわゆる立ち後れで、ややもすれば島村家の勢いには及ばないことが多かった。
秀吉が大阪に城を築いたとき、家康に向かってこの城は誰が攻めても落ちまいと言ったのを、家康はまことに左様と言う。そのとき秀吉はその智を誇るあまり、一度和睦を入れてその間に外堀を埋めたならば難なく落ちるだろうと言った。後年秀頼の世になって、果たしてその通りの手で大阪城は落とされた。人にものを言うときはよくよく心得て言うべきことと見える。