母と兄
こんなことを言っていると果てしがないから、以下なるべく縮めて申す。結局、若いときの苦労は苦しみのなかにも楽しみが多く、年取るに及んでは、どんな楽しいことにあっても後先を考えるから楽しくないものである。小生がロンドンでおもしろおかしくやっているうちにも、苦の種がすでに十分伏在していたので、ロンドンについて3年めに和歌山にいた母が死んだ。「その時にきてまし物を藤ごろも、やがて別れとなりにけるかな」。
仏国のリットレーは若いときその妹に死に別れたが、老年に及んでもその妹の顔が眼前にあるようだと嘆いたとのこと。東西人情は古今を通じて兄弟である。小生最初の渡米のおり、亡父は56歳で、母は47歳ほどと記憶する。父の涙が出るのをこらえる様子、母の思わず声を出した様、今はみな死に失せた。兄姉妹と弟が隠然と黙ってうつむいた様子が、今この状を書く机の周囲に手で触ることができるように見え申す。
それについて、また今だ一面識もない貴下も、このところをご覧になるならば必ず 然としたものがあるのを直観的にわかり、天下に不死の父母はいない、人間得がたきものは兄弟、この千万刧にして初めてめぐりあった縁厚い兄弟の間も、女性がひとりでも立ち交じると、だんだんと修羅と化して闘争することになる次第は近々述べよう。
この母が死んだ頃、兄弥兵衛がすでに無茶苦茶に相場などに手を出し、家ががら空きになっていた。この人は酒は飲まないけれど無類の女好きで、亡父の余光で金銭が乏しくなかったため、人に義理を立てるの何のということなく、幇間(たいこもち)のような雑輩を親愛するのみゆえ、世の人に面白く思われなかった。その頃、和歌山一の美女というものがいた。紀州侯の家老久野(くの)丹波守(伊勢田丸の城主)の孫で、この久野家は今までであれば男爵相当だが、絶えてしまった。この女が若後家であったのを兄が妾とし、亡父が選んでくれた本妻を好まなかった(和泉の尾崎という所の第一の豪家の女である)、久野の孫女の他になお4人の女を囲っていた。
そんなことで万事抜かり目が多くて、亡父の鑑定通り、父の死後5年に(明治30年)全く破産して身の置き所もなく、舎弟常楠の家に寄宿し、その世話で諸方銀行また会社などへ雇われて行ったが、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さな相場に手を出し、たまたま勝つと女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類たちから本妻を保持するか妾(久野家の孫女)を保持するかと問うたところ、3子まで生んだ本妻を離別して、妾と共棲するという。そのうち、この妾は貸家住居のもの憂さに堪えず、蔭を隠して去った(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となったが、先年死んでしまった)。