土宜法竜
年来この法主(※土宜法竜※)と問答した、おびただしい小生の往復文書は、ひとまとめにして栂尾(とがのお)高山寺に什宝のようにとりおかれた。それをいろいろな人物もあるもので、ひそかに借り出して利用しようとする者がいると聞き、師にことわって小生方へ送還してもらい、今も封のまま置いてある。
今から見ればさだめしつまらないことばかりであろうが、この往復文書中には宗教学上欧米人に先立って気づいたことどもも多く載せているのだ(大乗仏教が決して小乗仏教より後のものではないことは、小生の説。南北仏教の名をもって小乗と大乗を語ることの不都合、このことはダヴィズなどが言い出した。このことはその前に土宜僧正が言ったことである。その他いろいろとその頃にとっては斬新であった説が多い)。
小生が次回に和歌山に上って舎弟と談判し、事が済まなかったら、多くの蔵書標品を残らず人に渡し終わるはずなので、その節にはこの往復文書は封のまま貴下に差し上げましょう、どこかの大学にでも寄付なさってください。ただし小生が死なないうちは、他人に開き見せてはなりません。
この土宜僧正は遊んだ金が4万円ばかりあった。小生がくれと言ったら、少なくとも2万円はくれただろうけれど、出家から物を貰ったことのない小生は申し出なかった。出家の資産などは蟻の死体同然で死んだら他の僧どもが寄ってたかって共食いにしてしまう。じつにはかないところが出家のやや尊い遺風でござる。
大正10年の冬、小生は高野山に上った。布子一枚着て酒を飲んでから行って対面(法主は紫の袈裟にて対座)、小生は寒さたまらず酔いが出てきて居眠りし洟(はな)をたらすのを、法主が「蜂の子が落ちる」と言って紙で拭いてくれたところを、楠本秀男という東京美術学校出身の画師が実写して今でも珍重している。
そのとき、東京か大阪のよほどの豪家の60歳ばかりの老妻が警部に案内されて豊臣秀次関白切腹の部屋を見るうち、遠く法主と小生が対座したこの奇観の様子を見、あきれて数珠を取り出し膜拝(※もはい:両手をあげ、地に伏して拝すること※)して去った。
洟たれし(放たれし)次は関白自害の場
と口吟して走って帰った。
古人はアレキサンダー大王が、時としてきわめて質素に、時としてはまた至って豪奢であったのを評して、極端な2面を兼ねた人と評したが、小生も左様で、一方で常に世を厭い笑ったことすら稀なのと同時に、happy disposition が絶えず潜んでいて、毎度人を笑わすことが多い。 2者兼ね備えたためか、心身常に健勝で大きな病にかかったことは稀である。