山本達雄
話もここまでくれば終わりである。よって珍妙なことを申し上げた。大正11年春東京にあったとき、4月12日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地3万坪をもち1坪いくらと売った人)2氏に伴われ、山本達雄氏(子爵か男爵か記憶していないため氏と書く)を訪ねた。明治30年頃、この人は正金銀行の今西豊氏と英国に来て(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生は今西氏とサンフランシスコで知人であったため、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並んで坐って食事を供せられたことがあった。
そのとき山本氏が問うたのは「西洋の婦女は日本のと味が同じか」とは、よく好きな人と覚えた。さて山本氏は小生を知らないという。この人は小生の研究所の発起人であるのに知らないと言うのを小生は面白く思わず、渡英されたときのことどもをいろいろ話したところ、ようやく思い出したらしかったが、なお貴公がそんなに勉学しているものならば農相である予が多少聞き知っているはずなのに、一向に聞き知ったことがないのは不思議などと言う。
このようなことは、欧米の挨拶ではよほど人を怒らすことが好きな人でなければ言わないことである。小生の旧知で小生がキューバ島に行った不在中に、小生が預けておいた書籍を質にいれた小手川豊次郎というせむしがいた。日本に帰ってちょっと法螺を吹いたが死んでしまった。
この者が都筑馨六男爵と電車に同乗中、君の郷里はどこかと問われて、おれの生まれ場所を知らない者があるかと言ったが、都築男爵はカッとなって汝ごときの郷里を知るはずがないと言ったのを、板垣伯爵が仲裁したことがある、と新聞で見たことがある。小手川の言葉は無論として、都築男爵も品位に不相応な言葉を吐かれたものと思う。
関ヶ原の戦争で西軍があまりに多勢なので東軍は意気が揚がらず、そのとき板崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老であったが、主を恨むことがあって家康に付いた者で、この戦の後、石見国浜田1万石に封ぜられたが、大阪城が落ちるとき、秀頼の妻を取り出したらその者の妻にやると聞き、取り出したが、秀頼の後家は本多忠刻に惚れその妻となる。出羽守はこれを怒ってこれを奪おうとし、兵を構えようとするのを家臣に弑せられる。
故福地源一郎氏はこのことを虚談といったが、小生がコックスの『平戸日記』を見ると、コックスは当時江戸にいて、このことを記しているので事実である)が進み出て、西軍など恐るるに足らず、それがし一人いれば勝ち戦受け合いであると言ったのを家康が賞美する。出羽守が出たのち、小姓どもは大いにその大言を笑ったが、家康は、このような際にひとりなりとも味方のために気を吐く者がいれば味方の勇気が増すものである、その者の言葉を笑ってはならない、と叱ったという。
話の始終も履歴も聞かないうちに、私は汝に会った覚えがないなどと言われたら、その者の心はたちまちその人を離れるものである。スペインのアルフォンソ何世であったか、華族に会えば知らぬ顔をして過ぎ、知らぬ百姓に逢っても必ず色代(※しきだい:?※)したから、百姓たちが王に加担して強い華族をことごとくおさえ、王位を安らかに保った、と承ったことがある。