かわいそう
小生はたとえ豪州の2学者のそんな発見があったとしても、小生が気づいた松葉欄の胞子を発芽させる方法とは別個の問題なので(同一のこととしても発見の方法は別途なので)今も屈せず研究を続けている。さて、平瀬にこのことを報せた某博士は、小生がこの田舎にあって今も屈せず研究を続けていることをかわいそうなことと笑っていると聞いた。
小生はそんな博士をかわいそうにと冷笑するのだ。身は幸いに大学に奉職して、この田舎にいて万事不如意な小生より早く外国にこの研究を遂げた者があるとの報告に接したといって、その人がえらいのではない。言わば東京にいる人が田辺にいる者より早く外国の政変を聞き得たというまでのことである。小生が外国にいたうちは、男だけでなく婦女も、宣教または研究のためにアフリカや豪州やニューギニアの内地、鉄を溶かすような熱い土地に入って、7年も8年も世界の大勢はおろか生まれ故郷からの消息にさえ通ぜず、さて不幸にして研究を遂げずに病んで帰国し、はなはだしくは獣に喰われ病に犯されて死んだ者を多く知っている。これらは、事、志と違い半途にして中止したのはかわいそうというべきだが、決して笑ってはならない。同情の涙を捧ぐべきである。
御殿女中のように朋党結託して甲を乙が排し、丙がまた乙を陥れる、ちっぽけな東大などに150円や200円の月給で巣を失うまいと守るばかりがその能で、仕事といえば外国雑誌の抜き読み受け売りの他にない博士、教授などこそ真に万人の憫笑の的である。件の博士は学問が好きで自分が子を何人もっているかを覚えていない人とのこと、桀紂(※けっちゅう:夏の桀王と慇の紂王。ともに中国暴君の代表者※)はその身を忘れると孟子は言ったが、自分の生んだ多くもない子の数を記憶していないなどというのも、また当世流行の一種の宣伝か。
ここまで書き終わったところ、友人が来て小生に俳句を書けとはなはだ切に望む。ずいぶん前から頼まれていることのため、やむを得ず何か書くことと致します。この状はここで中入りと致します。右の俳句を書き終わって、また後の分をしたため明日差し上げよう。今夜はここで中入りと致し、以上ただ今まで出来た小生の履歴書のようなものをご覧に入れ申し上げましょう。蟹は甲に応じて穴を掘るとか、小生は生まれも卑しく、独学で、何ひとつ正当な順序を踏んだことなく、聖賢はおろか常人の軌轍をさえ外れた者なので、その履歴もろくなことがない。全く間違いだらけことばかり、よろしく十分にお笑いくださいませ。
一方、これまでこんなものを書いたことはなく、まったく今度が終わりの初物なので、用意も十分でなく、書き改め、補さん(※「さん」は「冊+リ」 ? 冊子にするの意味でしょうか※)する暇もないので、垢だらけの乞食女の新鉢(あらばち)を割るつもりで御賞玩くださいませ。ただしロベルト・ド・ヴェルヴェイユの著に、ある気楽な人の言葉に、乞食女でもかまわず、あらばちをわることができるならば王冠を戴くよりも満足を得ることができると言った、とある。
小生のようなつまらない者の履歴書には、また他のいわゆる正則に(正則とは何も変わったことがない平凡きわまるということ)博士号など取った人と違って、なかなか面黒いことどもも散在することと存じ申し上げます。これは深窓に育ったお嬢さんなどは木や泥で作った人形同然、美しいだけで何の面白みもないが、茶屋女や旅宿の仲居、女中の横に平たいやつには、種々雑多の腰の使い分けなど千万無量に面白くおかしなことがあるのが一般的であろうと存じます。
大正14年2月2日夜9時