南方植物研究所設立へ
さて、研究所の主唱者は舎弟常楠と田中長三郎氏の二人であったが、田中氏は大正10年仲春(※ちゅうしゅん:春の3ヶ月の中の月※)、洋行を文部省から命ぜられ米国に渡り、何となく退いてしまわれた。これは今から察すると、舎弟が我欲の強い吝嗇漢で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かって利にまわそうとでも心がけて、小生に仕向けていることらしくわかったので、田中氏は退いてしまったことと察し申す。
小生は俗世のことに暗いため、そんなことと知らず、すでに研究所の趣意書までまき散らしたことなので、また東京では数万金が集まったことなので、今だ一生懸命励んで金を集めており、基本金には手を付けることができないため、いろいろと寄書、通信教授、また標本を売ったりなどして、細々と暮らしを立てている。
舎弟は、小生が意外に多く金が集まり銀行へ預けた上はそれで自活すればよいと、研究所の寄付金と小生一家の生活費を混同し、今まで送って来た生活費を送らなくなってすでに2年、よってさしあたりこの住宅がなくては研究が安定しないので、前年買ったときの約束に基づき4500円で譲与を望んだが、今の時価でなければ(少なくとも1万円)譲らないと主張し、またその代わりに小生が亡父から譲られた田地を渡して交換しようというと、大正3年に小生の望みにより名前を舎弟のものに切り換えてあるという。
これはそのころ当町の税務署より突然小生に所得税を徴収させられたことがあった。小生は一向に所得税を払うべき物はないと言ったところ、田地2町2反あるのを知らないのかという。小生はそんなことは末弟らから聞いたことはあるが、自分は金銭のことに疎いので知らないと言い、舎弟へ書面を出し、右のようなことが申し来ては面倒なためこれまで通り小生に代わってこれを預かっているその方から納税しておいてくれと、代納の委任状を送った。実印は舎弟に預けてある。よってその代納税の委任状の小生の記名を何とかして譲与証書を作り、自分の物にしてしまったことと存じる。
小生の月々の費用は、米が多くを占め、毎年6石ほど食う。
右の2町2反余から30石ほどあがるのだ。それに小生は迂闊にして、右2町2反余の地価の980円とあるのを明治20年頃の価と知らず、わずかなことなので意に介するまでもないとして、この頃まで過ぎてしまったのだ。
酒屋というものは毎年納税期に四苦八苦して納税する、そのためにはずいぶん兄弟や親戚の財産を書き換えることもあると聞くため、骨肉の情としていつでも間に合わせ、用が済めばまた小生に還すことと心得、実印までも預けておいてあるのだ。それなのに、小生のように金銭にかけては小児同様のものをこのようになすとは、骨肉しかも同父母の弟としては非人道の至りである。
例年代納して来たのに、この年に限り小生が依然金銭に迂闊であるか否かを試みるために代納を拒み、突然小生に徴税させたとわかる。このかけあいに前日上がったが、寒気烈しく帰ってきて、さらに妻と妻の妹を遣わし、5時間もかけあったが埒が明かず、春暖かくなれば小生がまたみずから上がろうと思う。
そして談判のかたわら、生まれ故郷のことなので今も知人や知人の子弟は多くいて、それらの人々に訴えて金を集めようと思う。今のような不景気な時節に集金は難しいことながら、ただ今でもときどき小生の篤志を感じ寄付金を送られる人がないではない。小生一度企てた以上は、たとえ自身の生涯に事が成らずとも、西洋の多くの例のように、基礎さえ建てておけば、また後継者が大成してくれると思う。