南方常楠(みなかた つねぐす)
南方常楠(1870年〜1954年)。熊楠(1867~1941)の実弟。
東京専門学校(今の早稲田大学)卒業後、父弥右衛門とともに酒造業を始め、南方酒造(現・世界一統)の基盤を作りました。
和歌山市議会議員なども務めました。
世界一統のお酒
南方常楠
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳5)
死に先立つ3、4年前、身代を半分にして半分を長男弥兵衛に自分の名とともに譲り、残る半分を五文して自分がその一分を持ち、四分を次男である小生、三男常楠、四男楠次郎と小生の姉とに分かち、さて、兄弥兵衛は好色淫佚放恣驕縦な者であるので、我が死んで5年内に破産するだろう、次男熊楠は学問好きなので学問で世を過ごすだろう、ただし金銭に無頓着な者なので一生裕福になることはできないだろう、三男常楠は謹厚温柔な人物なのでこれこそ我が後を継ぐべき者、また我が家を保続することができるであろう者である、兄弥兵衛亡滅の後は兄熊楠も姉も末弟もこの常楠を本家として帰依せよと言って、亡父は自分の持ち分と常楠の持ち分を合同して酒造を始められた。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳6)
さて、小生はロンドンに9年いた。最初の2年は亡父の訃に接して大いに力を落とし、また亡父の死後、弟の常楠がその家を継いだが、年齢は23、4で、兄から財産分けに対して種々の難題を持ち込まれ、いろいろ困ったこともあるといって小生への送金も豊かではない。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳13)
そんなことで万事抜かり目が多くて、亡父の鑑定通り、父の死後5年に(明治30年)全く破産して身の置き所もなく、舎弟常楠の家に寄宿し、その世話で諸方銀行また会社などへ雇われて行ったが、ややもすれば金銭をちょろまかし、小さな相場に手を出し、たまたま勝つと女に入れてしまう。破産閉塞の際、親類たちから本妻を保持するか妾(久野家の孫女)を保持するかと問うたところ、3子まで生んだ本妻を離別して、妾と共棲するという。そのうち、この妾は貸家住居のもの憂さに堪えず、蔭を隠して去った(後に大阪の売薬長者浮田桂造の妻となったが、先年死んでしまった)。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳14)
こんなことで兄の破産のつくろいに弟常楠は非常に辛苦したが、亡父存命中にすでに亡父の1分と常楠の1分を合わせ身代となし、酒造業を開いていたため、兄の始末もたいてい片付けた。しかし、兄の破産の余波が及んだので、常楠が小生に送るべき為替、学資をだんだん送って来なくなった。小生は大いに困って、正金銀行ロンドン支店で逆為替を組み常楠に払わせたが、それもしばらくして断ってきた。よってやむを得ず翻訳などをしてほそぼそと暮らしを立て、ときどき博物館に行って勤勉するうち、小生はまた怒って博物館で人を打った。すでに2度までこのようなことがある以上は放ってはおけないとあって、小生は大英博物館を謝絶される。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳15)
帰国してみると、両親は亡くなって空しく卒塔婆を留め、妹ひとりも死んでおり、兄は破産して流浪する、別れたとき10歳であった弟は25歳になっている。万事変わってしまっていて、次弟常楠は不承不承に神戸に迎えに来て、小生が無銭であることに驚き(じつは船中でただ今海軍少将である金田和三郎氏から5円ほど借りたのがあるだけ)、また生来の書籍標品のおびただしいのにあきれていた。そして兄破産以後、常楠方ははなはだ不如意なのでといって、亡父が世話をした和泉の谷川(たがわ)という海辺の、理智院という孤寺へ小生を寄寓させた。
しかしながら、その寺の食客兼留守番に、もと和歌山の下士(※かし:身分の低い武士※)和佐某がいる(この人はいま大阪で自動車会社を営み、大成金で処女を破膜することだけを楽しみとすると聞く)。これは和佐大八といって、貞亨4年4月16日、京の三十三間堂で、1万3000の矢を射てそのうち8033を通した若者の後裔であるが、家禄奉還後零落してこの寺にいささかの縁があっていたのだ。
小生がこの人と話をすると、和歌山の弟常楠はだんだん繁盛してきていると言う。兄の破産が祟ってつぶれたように聞くがと言うと、なかなかそのようなことはない。店も倉も亡父の存命時より大きく建て増ししたと言う。不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残した80歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かないかと言うと、それは結構ということで、小生は有りきり4円ほどの紙幣をこの人に渡し、夜道を1里(※1里はおよそ4km※)ほど歩いて停車場に着き、切符を買わせ汽車に乗って30分ばかりのうちに故郷に着いた。
それから歩いて常楠の宅に行くと、見た昔よりは盛大な様子。これで兄の破産のために弟の家の暮らし向きも大いに衰えたというのは虚言で、まったく小生が金銭のことに疎いのにつけ込んで、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申した。当時、小生は堅固な独身で、弟はすでに妻もあれば2子もあった。人間、妻をめとるときが兄弟も他人となる始めであるとわかり申した。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳16)
しかしながら、小生はそんな金をもらっても何も用途もないのでと言って依然舎弟に任せ、その家で読書しようとすると。末弟である者が26歳になるのに父の遺産を渡されず常々不平不満な様子でいるのを見て、これもまた小生同様中弟常楠にかすめ取られることを慮り、常楠にすすめて末弟にその父の遺産を分け与えさせ妻を迎えさせた。しかしながら、小生が家にいてはおそろしくて妻をくれる人はいない。当分熊野の支店へ行けとのことで、小生は熊野の生物を調べることが面白くて、明治35年12月に熊野勝浦港に行った。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳30)
右の次第で小生は、南隣の主人の無法のために5年来の試験を打ち切らざるを得なくなったので、県知事はじめ友人らが、これはまったく小生が長年あまりに世間とかけ離れて仙人住まいをした結果なので、何とかして多少世間に目立ち、世の人より尊敬され保護されるような方法を講ずるべきだとのことで、協議の末に生まれたのが植物研究所で、その主唱者は拙弟常楠と田中長三郎氏(趣意書の起草者、大阪商船会社、中橋徳五郎氏の前に社長であった人の令息)であった。
しかしながらこの常楠というものは、幼時は同父同母の兄弟としていたって温厚篤実の者であったが、その妻が非常に気性の強い女で、もと、小生のような成金者のせがれと違って、代々名高かった田舎長者の娘である。にわか大名がひたすら公卿の娘を妻として誇りたいように、小生の父が亡くなった後、母が以前士族に奉公したことがあるので、せがれに旧家から嫁を取ってやりたいといって、この女を弟の妻としたのである。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳32)
さて、研究所の主唱者は舎弟常楠と田中長三郎氏の二人であったが、田中氏は大正10年仲春(※ちゅうしゅん:春の3ヶ月の中の月※)、洋行を文部省から命ぜられ米国に渡り、何となく退いてしまわれた。これは今から察すると、舎弟が我欲の強い吝嗇漢で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かって利にまわそうとでも心がけて、小生に仕向けていることらしくわかったので、田中氏は退いてしまったことと察し申す。