ロンドンで知り合った人
さて、小生はロンドンに9年いた。最初の2年は亡父の訃に接して大いに力を落とし、また亡父の死後、弟の常楠がその家を継いだが、年齢は23、4で、兄から財産分けに対して種々の難題を持ち込まれ、いろいろ困ったこともあるといって小生への送金も豊かではない。小生は日々、ケンシングトン公園に行き、牧羊夫のいるなかに座って読書し、また文章を自修した。
そのうち正金銀行支店から招かれ、今の英皇新婚の式の行列を観たことがある。その座で足芸師美津田(みつた、足芸師とは仰向いて寝て足で種々の芸をする曲芸師)という人と知り合いになる。この人はかつて明治9年頃すでにその後小生が歴遊した諸国を演芸して回ったことがあって、話が合うのでその家へ訪れたが、この人の知る片岡プリンスという者が来て会わせた。これは故土井通夫氏の甥であるが、何とも知れない英語の名人。
むかし曾禰荒助氏などと同じくパリに官費留学して、帰朝の途中シンガポールで、もとパリで心安かったジャネという娼婦に巡り会い、共に帰朝してだらしなく身を持ち崩し、東京にいたたまれず、またパリに行き、貧乏生活のなかジャネは流行病で死に、それからいろいろ苦労してとうとうあるフラマン種の下宿屋老寡婦の夫となり、日本人相手に旅宿を営んでいる、諏訪秀三郎という人がいる。韓国王后の首を刎ねた岡本柳之助の実弟である。この秀三郎の仏語を話すのを障子1枚隔てて聞くと日本人とは聞こえず、まるで仏人である。
件のプリンス片岡は英語における諏訪氏ともいえるほど英語の上手である。かつ『水滸伝』に浪子燕青は諸般の郷語に通じるとあるように、この片岡は cant, slang, dialects, billingsgate 種々雑多、刑徒の用語から女郎、スリ、詐欺師の常套句に至るまで、英語という英語に通じないところなく、胆略きわめて大きく種々の謀計を行なう。
かつて諸貴紳の賛成を経て、ハノヴァー・スクワヤーに宏大な居宅を構え、大規模の骨董店を開き、サルチング、フランクスなど当時有数の骨董好きの金満紳士を得意にもち、大いに気勢を上げたが、なにぶん本性がよくない男で毎度尻が割れる。
それに対し英人は一度親しんだ者をには見捨てないので、どこまでも気長く助けてくれたが、次第に賭博また買淫などに手を出し、いかがわしい行いが多かったため、警察に拘引され、ついには監獄に投ぜられることもしばしばで、とうとう英国にもいられなくなり、どこへか逐電したが、どう成り果てたかわからない。斎藤実氏なども、ニューヨークにあった日、片岡のためにひどい目に逢ったと語られたことがあった。
当時小生は英国に着いて、古くからの知り合いを一人二人尋ねたが、父が死に、弟は若く、それに兄がいろいろと難題を弟に言いかける最中で国元から来る金も多くない。日々の食も乏しく、ひどい場合は絶食という有様であったため、誰ひとり顧みてくれる者もなかったが、この片岡が小生を見て変な男だが学問はおびただしくしていると気づく。それより小生を大英博物館館長であったサー・ウォラストン・フランクスに紹介してくれた。