僻地、熊野
mushrooms / Crystalline Radical
ご承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでもわかるように、日本国内でありながら熊野者といえば人間でないように申した僻地である。
小生が24年前帰朝したときまでは(じつは今も)今日の南洋のとある島のように、人の妻に通ずることを普通のことと心得ているところがある。また年頃の娘に米1升と桃色のふんどしを添えて、所の神主または老人に割ってもらうところがある。
小生みずからも、17,8の女子が柱に両手を押し付け、図〔※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫) 349頁〕のような姿勢でいたのを見て、飴を作るのかと思っていたが、幾度その場所を通るもこの姿勢のため、何のことかわからず怪しんでいると、若い男がくじでも引いたのか、俺が当たったと呟きながらそこへ来て、後ろからこれを犯すのを見たことがある。
また熊野の3個の最難所といわれる安堵ヶ峰に40余日、雪中に木の小屋に住み、菌類を採集中、浴湯場へ14,5の小娘が子供を背負って来たが、若い男を見れば捕まえて「種臼斬ってくださんせ」と迫る。何のことかわからなかったが、女陰を臼に譬えたことは仏経にも多く例があるので、種臼とは子をまく臼ということと悟り申した。
夫婦のことに関してすらこんな乱暴な所ゆえ、他は推して知るべしで、今も熊野の者は行儀の作法ということを知らない。
これは昔話のようだが、上野(うわの)という所(紀州の最南端で無線電信局のある岬である)に喜平次という旧家があり(旧家といっても元禄ころの地図にこの地名さえ見えないほどなので、米国の旧家と同じでしれたものである)、今も多額納税者である。
この家の老主婦がある年、本願寺とかへ参るといって、自家の船に乗り大阪の川口に到ったが、たまたま暴風が起こり諸国より集まった船舶が大いに混雑するのを見て、この老婆が、「みなみな静まれ、喜平次の船じゃ、喜平次の船じゃ」と呼びかけたという。熊野の小天地で勢いがあるからといって、天下の船場所である大阪の川口で、「みなみな静まれ」といって名乗っても、遠州浜松の町通り同然広いようではなはだしく狭いものと、後年まで万人の諺となり、笑うところとなっている。
それと同じで、小生の南隣に移って来た男も、川添村といって何とも知れない僻村の生まれで、わずかな成金となったのでといって、他人のことを一切かまわない者である。それが小生の隣宅を買い移って来たのち、その長屋〔上図(イ) ※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫) 350頁※〕で蜜柑箱の製造を始める。
この長屋に窓が2つあって小生宅の後庭に向かっている。これは成規によれば隣宅の内部を見るのはよろしくないことゆえ、空気だけ通して目で見ることができないように目隠しを設けるべきものである。しかしながら、これまで南隣の宅に住んでいた人は小生の知人でもあり、礼儀をも心得た人であり、かつ小生よりも久しく住んでいた人であって、もとこれらの3家は1人の住宅であったため、このような難しいことは必要ではなかった。拙方の者どもが後庭に出れば南隣の人が長屋の窓を閉め切り、拙方の者どももまた長屋に人がいると見るときは、斟酌してなるべく近づかなかった。
それなのに、件の成金がミカン箱製造を始めてから、立ち代わり入れ代わり、どこの人とも知れない者を雇って来て、長屋の窓を開けはなして拙方を自由自在に見通すから、女子どもが恥じて後庭に出ることができない。幾日経ってもこの次第なため、小生はその窓辺に行き、「汝ら、ここから我が園内を覗くな」と言ったところ、それから事が起こって、この南隣の者が右の長屋(2階なしの低いもの)を高さ2丈(※1丈は約3m※)ほどの2階建てに改築しようとする。