結婚、小畔氏との出会い
このようにして2年余り那智にいたのち、当地にもと和歌山中学に在りし日の旧友喜多幅(きたはば)と申す人が医術をもって繁盛していると聞き、昔の話をしようと当田辺町へ来て、それより至って人の気性がよく物価安く静かで、風景気候はよく、そのまま当地に住み、20年の長きにわたって夏と冬を送った。
独身では不自由なため、喜多幅の媒介で妻をめとる。小生40歳、妻は28歳、どちらもその歳まで女と男を知らなかったのだ。妻は当地の闘雞神社といって、むかし源平の合戦のときに熊野別当湛増(たんぞう)がこの社で神楽を奏し、赤白の鶏を闘わせたが、白がことごとく勝ったため、源氏に味方して壇の浦に平氏を殲滅させたと申す。その社の維新後初めての神主の第四女である。裁縫、生け花などを教え、貧乏な父に孝行して嫁に行く暇もなかったのだ。
この妻が小生が近年足が不自由になってから、もっぱら小生のために菌類を採集し発見することが多い。本邦で夫人の植物発見の最も多いのはこの者であろう。この道では海外までも聞こえた者である。その父は如法の漢学者であったため、この女は『女今川』育ちの賢妻良母風の女である。琴などもよく弾くが、小生が貧乏のため左様な暇もなく、筒袖を着て洗濯耕作などいたしている。18になる男子と15になる女子がいる。どちらも将来のわからない者たちである。
また那智にいた厳冬のある日、小生が単衣に縄の帯をして一の滝の下で岩を砕き地衣(こけ)を集めているところへ、背広服を着た船のボーイのような者が来て、怪しんで何をしているのかと問う。それからいろいろ話すと、この人は蘭を集めることを好み、外国通いの船に乗って諸国に通うが、至る所の下宿に蘭類を集めていると言う。奇なことに思い、小生の宿へ連れて行き1時間ほど話した。それが小畔四郎氏で、その頃ようやく船の事務長になったほどである。
同氏が勝浦港へ去ったのち、小生は面白い人だと思い、せめて1、2日留めて話そうと走り追って井関という所から人力車に乗り、勝浦へ着いたときはちょうど出港後であった。そのとき、小畔氏がすでに立ったか否か船会場へ小生のために見に行った中野才一郎(今年38歳)という和歌浦生まれの者が、このごろ強盗となって大阪辺を荒らし、数日前に捕われたことが昨日の『大毎』紙に見えるのも奇事である。
それからのち、ときどき中絶したことがないわけではないけれども、小畔氏が海外航路から内地駐在に落ち着いてのちは絶えず通信し、その同郷の友、上松蓊氏も、小畔氏の紹介で文通の友となり、種々この2氏の芳情により学問を進められることが多い。