帰国
帰国してみると、両親は亡くなって空しく卒塔婆を留め、妹ひとりも死んでおり、兄は破産して流浪する、別れたとき10歳であった弟は25歳になっている。万事変わってしまっていて、次弟常楠は不承不承に神戸に迎えに来て、小生が無銭であることに驚き(じつは船中でただ今海軍少将である金田和三郎氏から5円ほど借りたのがあるだけ)、また生来の書籍標品のおびただしいのにあきれていた。そして兄破産以後、常楠方ははなはだ不如意なのでといって、亡父が世話をした和泉の谷川(たがわ)という海辺の、理智院という孤寺へ小生を寄寓させた。
しかしながら、その寺の食客兼留守番に、もと和歌山の下士(※かし:身分の低い武士※)和佐某がいる(この人はいま大阪で自動車会社を営み、大成金で処女を破膜することだけを楽しみとすると聞く)。これは和佐大八といって、貞亨4年4月16日、京の三十三間堂で、1万3000の矢を射てそのうち8033を通した若者の後裔であるが、家禄奉還後零落してこの寺にいささかの縁があっていたのだ。
小生がこの人と話をすると、和歌山の弟常楠はだんだん繁盛してきていると言う。兄の破産が祟ってつぶれたように聞くがと言うと、なかなかそのようなことはない。店も倉も亡父の存命時より大きく建て増ししたと言う。不思議なことに思い、こんな寺はどうなってもよいから、貴公も和歌山に残した80歳以上の老母に逢いたかろう、予を案内して和歌山へ行かないかと言うと、それは結構ということで、小生は有りきり4円ほどの紙幣をこの人に渡し、夜道を1里(※1里はおよそ4km※)ほど歩いて停車場に着き、切符を買わせ汽車に乗って30分ばかりのうちに故郷に着いた。
それから歩いて常楠の宅に行くと、見た昔よりは盛大な様子。これで兄の破産のために弟の家の暮らし向きも大いに衰えたというのは虚言で、まったく小生が金銭のことに疎いのにつけ込んで、兄の破産を幸い、小生へ送金せず、小生の分を利用したことと察し申した。当時、小生は堅固な独身で、弟はすでに妻もあれば2子もあった。人間、妻をめとるときが兄弟も他人となる始めであるとわかり申した。
故菊池大麓男爵は、小生が毎度英国の『ネイチャー』、東京の『東洋学芸雑誌』へ寄書するのを読んで、はなはだ小生を誉められたと下村宏氏に徳川頼倫侯が話されたと聞く。この大麓男の言葉に、英国人は職業と学問を別にする、医者が哲学を大成したり、弁護士で植物学の大家があったりする、人間生活の安定がなくては遠大な学業は成らぬということを知り抜いたから、と申された。総じて習慣が第二の天性を成すもので、初め学問を大成させるために職業を勉めた風がもととなって、英人は父が職業を勉めた結果、大富人となり、その子は父の余光で何の職業も勉めずに楽に暮らしうる身で、なお余事に目を振らずに学問にもっぱら励む者が多い。
いわゆる amateur 素人学問ながら、我が国でいう素人浄瑠璃、素人相撲と事は違って、ただその学問を生計の方法としないというまでで、じつは玄人専門の学者を圧する者が多い。スペンサー、クロール、ダーウィン、いずれもこの素人学問で千万の玄人に超絶している者である。上述の、小生が小便をひっくり返した狭くてみすぼらしい部屋の近所ながら、小生のと違って立派な町通りに住んでいた故アンドリュー・ラングなどは、生活のためといいながらいろいろな小説や詩作を途絶えず出し、さて人類学、考古学に専門家も及ばない大議論を立て、英人中もっとも精勤する人といわれた。この人などは大学での人で多くの名誉学位を帯びたが、博士など称せず、ただ一般人同様ミスター・ラングで通したのだ。