ネイチャー(Nature)
『ネイチャー』は、1869年にイギリスで天文学者ノーマン・ロッキャーによって創刊された自然科学雑誌。創刊当時から現在にいたるまで、世界で最も権威のある自然科学雑誌のひとつです。
雑誌の記事の多くは学術論文が占め、『ネイチャー』に掲載されることは研究者にとって非常に名誉なこと。若き熊楠も憧れの気持ちを抱きながら、『ネイチャー』を購読していたことと思われます。
南方熊楠(1867〜1941)がロンドンで有名になったのが、この『ネイチャー』に投稿記事が掲載されてから。1893年10月5日号に掲載された「東洋の星座」、熊楠26歳の処女論文。
以降、熊楠は『ネイチャー』に投稿を続けます。
「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」「蜂に関する
東洋人の諸信」「拇印考」「マンドレイク論」「さまよえるユダヤ人」…
南方熊楠が1893年の処女論文から、帰国後1914年までの間に『ネイチャー』に掲載された記事の数は51篇(『南方熊楠全集 10 』 に所収、邦訳は『南方熊楠英文論考「ネイチャー」誌篇』)。『ネイチャー』掲載51篇は、一研究者の論文掲載数としては歴代最多と思われます。
熊楠の誕生日は1867年5月18日(慶応3年4月15日)。
熊楠が寄稿した頃の『ネイチャー』は文化人類学や民俗学的な論文も掲載され、自然科学のみの現在とは雑誌の性格が異なっているとはいえ、『ネイチャー』掲載論文数歴代最多の記録を、江戸時代生まれの日本人である熊楠が持っているということは、熊楠がいかに飛び抜けた存在であったのかを教えてくれます。
関連サイト
ネイチャー・ジャパン
ネーチャー
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳7)
そのときちょうど、『ネーチャー』(ご承知の通り英国で第一の週刊科学雑誌)に天文学上の問題を出した者があったが、誰も答えられる者がなかったのを小生が一見して、下宿の老婆に辞書一冊を借りる。きわめて破損した本でAからQまであって、RからZまでが全く欠けていた。
小生はその辞書を手にして答文を草し、編集人に送ったところ、すぐに『ネーチャー』に掲載されて、『タイムス』以下諸紙に批評が出て大いに名を挙げ、川瀬真孝子(当時の在英国公使)より招待されたこともあったが断った。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳9)
小生はその頃、度々『ネーチャー』に投書いたし、東洋にも(西洋一般が思うところに反して、近古までは欧州に恥じない科学が、今日より見ると幼稚未熟ながらも)あったことを西洋人にも知らしめることにつとめていた。これを読んで欧州人で文通上の知己となった知名の人が多かった。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳9)
この人は小生が度々『ネーチャー』に投書して東洋のために気を吐くのを不思議に思い、1日小生をその官房に招き、ますます小生に心酔して、氏が度々出版する東洋関係の諸書諸文はみな小生が多少校閲潤色したものである。なかんずくオクスフォード大学出版の『日本古文』は、『万葉集』を主とし、『枕草子』、『竹取物語』から発句にいたるまでを翻訳したもので、序文に、アトスン、サトウ、チャンバレーン、フロンツとともに小生に翼助の謝辞を述べている。このディキンズ氏の世話で、小生は英国第一流の人に知己が多少あるようになった。『ネーチャー』に出した「拇印考」などは、いま列国で拇印指紋に関する書が出る毎に、オーソリティー(権威)として引用されるものである。
南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その7)
明治二十七年予この文を見出し『ネーチュル』へ訳載し大いに東洋人のために気を吐いた。
南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その34)
竜譚の発達に最も力を添えたは海蛇譚で、海蛇の事は予在外中数度『ネーチュル』その他でその起原を論戦したが、事すこぶる煩わしいからここには略して竜譚に関する分だけを述べよう。
南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その41)
一九〇二年頃の『ネーチュル』に、インドにある英人ジー・イー・ピール氏が寄書して、犬の両眼の上に黄赤い眼のような両点あるものは、眠っていても眼をり居るよう見えるから、野獣甚だこれを恐れて近附かぬと述べた。