ちょっと解説
植物学の権威、帝国大学理学部植物学科教授の松村任三に宛てた2通の書簡。神社合祀が貴重な自然植生を破壊していることを訴え、助力を求めました。この2通の書簡は、柳田国男によって『南方二書』という小冊子に編まれ、50部印刷されて有識者に配布されました。
御陰(おかげ)により神社神森一件もまず「二書」の分配で結局なるべく、小生は安心して昨日より大いに勉強し得、事業も早く進行申しおり候。
(明治44年9月29日付柳田国男宛て書簡)
おかげさまで『南方二書』の配布によって神社合祀の一件も終局するだろうから、小生は安心して勉強できます、と柳田に感謝を伝えています。これで決着がつくと熊楠自身がいうほどに力を込めて書かれた神社合祀反対意見書ですので、『南方二書』はぜひとも読んでいただきたい文章です。
小生、貴下拙意見書刊行下されしを喜び、今日三時ごろより子分らを集め飲み始め、小生一人でも四升五合ほど飲み大酔、一度臥せしがたちまち覚め候。
(明治44年9月27日付柳田国男宛て書簡)
小生「二書」出でてよりは大いに心も安く三年来始めて閑悠を得、妻子も怡びおり候。
(明治44年10月6日付柳田国男宛て書簡)
『南方二書』が刊行されたときは嬉しくて、弟子たちを集めて昼の3時から酒を飲みはじめて、熊楠1人で4升5合ほど飲んで酔っ払ったとのこと。
明治39年に施行された1町村1社を原則とする神社合祀令は熊野に壊滅的なまでのダメージを与えました。
明治政府は記紀神話や延喜式神名帳に名のあるもの以外の神々を排滅することによって神道の純化を狙いました。
熊野信仰は古来の自然崇拝に仏教や修験道などが混交して成り立った、ある意味「何でもあり」の宗教ですから、合祀の対象となりやすかったのだと思います。村の小さな神社が廃止されただけでなく、歴代の上皇が熊野御幸の途上に参詣したという歴史のある熊野古道「中辺路」の王子社までもが合祀され、廃社となりました(田辺から本宮までの「中辺路」で合祀滅却されずに済んだ王子は、なんと滝尻王子と八上王子の2社のみ)。
五体王子のひとつとして格別の尊崇を受けた稲葉根王子や発心門王子でさえ合祀されたのです。小さな神社や王子社のほとんどが合祀され、神社林は伐採されました。
神社合祀の嵐が熊野に吹き荒れるなか、神社合祀反対運動に立ち上がったのが南方熊楠です。この「南方二書」もその運動の最中に書かれた文章です。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収