新宮
新宮では、神社合祀を東牟婁郡中に励行したが、まず郡内の手弱い素朴の民が多い七川郷から始め、神社を多く合祀、しかし添の川という所で暴動が起こり少々躊躇、これのため高田という山村また那智村の辺りは全く抗議し、今日まで残存した。その入れ合わせに、小生が昨年の国会へこのことを持ち出さない前にと、大急ぎで新宮中の神社のことごとく破却公売し、新宮神社へ合祀する。その時の励行はじつに烈しく、鳥羽院に随侍して来た女官が立てた妙心寺という寺までも、神社と称し破滅しようとするに至った。
当時新宮第一の学者小野芳彦(これは学問のみならず、篤行をもってはなはだ人に重んぜられる人)の来状を左に抜き出す。
強制的神社合祀のこと、小子らにおいても、その理由あるところを詳らかにすることができない。賢台(毛利清雅、この者は当国で一番に合祀を民の随意に任すべきだという論を言い出す『牟婁新報』の主筆である)および南方先生らのめざましい御奮起、信念を曲げずにその非を御論議をしてくださっているのを伝え承り、陰ながら深く感謝申し上げます。
小生はこれまで山男のような独身生活を山中で営んでいたもので、毛利のようには政治行政のことに少しも関係しなかった。英国のトマス・ブラウンは英国大内乱の際、一向意に介さず、所学をもっぱらに磨いたと申すが、小生もそんな風な男である。毛利は政治家で功過相半ばする。しかし世間を相手に主張を貫くには、新聞記者などをも味方とせざるをえない。
昔ウチカのカトーがローマの内乱に臨み、シーザーも悪人で、ポンペイもまた純善の人ではない、しかしながら2つ取りにするにはポンペイのほうがまずは国家に害心が少ないといってその味方をし、ポンペイが敗死するに及んで、シセロがしたようにちょっと頭を下げれば、シーザーは喜んで死を赦したはずなのに、屈せずに死んだ。
小生もまたこんなことで、神社合祀反対を立て抜くために『牟婁新報』で筆禍を得て罰金を命ぜられ、また乱暴して監獄行きとなった。今日の世では味方なしでは何もできない。当時、小生は三好氏の保勝会などのことを少しも知らず、訴えるのにも訴え所がなく、ついに入監にまで及んだ。
すでに当新宮町などでも合祀を断行致し、渡御前社(神武天皇を奉祠し、もっとも民の信行が深い)を始め、矢倉神社、八咫烏神社のような由緒古く、来歴深く、民衆の崇仰がとくに厚かった向きをも、一列一併に速玉神社境内社の大琴平社と飛鳥社とに合祀してしまっただけでなく、当時矢倉町にあった矢倉神社、船町の石神社、奥山際地にあった今神倉神社(祭神は熊野開祖高倉下命〔たかくらじのみこと〕の御子、天村雲命)などは、すでに公売され、石段は取り崩され、樹木は伐採移植させられ、神聖なる祠宇は子供達のいたずらの場となり、荒涼とした様子でまことに神を傷ましめるものです。
近ごろ、郡参事会員某氏の話で、氏の村内の某大家などはこれをことに深く悲しみ、合祀実行の日は全大字を挙げて全ての戸を閉じて、号泣哀痛の意を表し、また自分の大字の氏神なども、やむなく他に合祀させられたが、これは別に遥拝所を設け祭礼を執り行うはずだと話されています。
神倉神社(史籍にその火災を伝え書き、古歌に名高い社)も速玉神社の摂社として遷されました。奥山際にある今の神倉神社の例の大老樟が立ち覆っている社地は、宮本熊彦氏が坪9円計700円で落札したが、その日のうちに1000円で他へ譲り渡し、奇利300円を拾得致したとのことです。云々。
(そうして新宮の神官の宇井という者は、件の神武天皇社の滝の水を自宅へ取り込み、また社有の薮のタケノコの売上高を私し、賽銭を祭日にわずか1円と書き上げ、その他を着服するとの評判が高い。ただ今1厘銭はなく少なくとも5厘銭で、新宮ははなはだ華奢の地なので、祭日の賽銭が1円とは虚言もはなはだしい。今回の那智事件も、どうやら神官の尾崎(前に郡書記であった)も入監されるらしいです。
神職というものは、みなこの通りのつまらぬ人物であるのに、それに厚給を与え、学校教師とくいちがって古いドグマを説かせ、国家の進歩を計ろうとするのは理解ができない。新井白石の『読史余論』には、経忠公が南朝にお奔りになる件に、公家と僧侶ほど徳義心の薄いものはないということをいっている。それなのに、このような不条理の合祀が行われるに及んでと立ち上がり、その国体に害あるのをいった神官は、伊勢四日市諏訪社の神官、生川(なるかわ)鉄忠氏ひとりの前後になかったのは、じつにわが国のために憂うべきことといわざるを得ない。)
(参照、中村啓次郎の衆議院の演説のなかに下の一節がある。日高郡南部の雨水という人の何の心もなく書いた俳句の小引に、1月7日、神社合祀の令、厳にして背くべからず、ついに決してこの夜を期とし、大字の神を村社に送る。1戸2、3人送らないものはない。神灯が長く続いて外観賑やかであるが、人々は寂として声もない。門の外、辻の辺りで、婦女や男の子が筵の上で跪いて見送る。惜別の情を禁じかねてか、時に嗚咽を聞く、云々。)
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収