那智のクラガリ谷
小生みずからはすでに採集を終えたので、別にさしかまいのないことながら、那智参詣のついでに、同山中最勝の植物区として観察すべきクラガリ谷(陰陽の滝といって、図のごとき2つの流れの小瀑布が交錯して下りる滝がある※図は本で見てください※)は、珍植物、ことにシダ類、リュウビンタイ、スジヒトツバ、エダウチホングウシダ、ヒロハノアツイタ、アミシダ、その他、はなはだ多い(標本の一部は牧野氏に去年おくった)。
たとえば、岩窪1尺四方ばかりのうちに落葉が落ち重なっているところに、ルリシャクシャクジョウ、ヒナノシャクジョウ、オウトウクワとホンゴーソウ、また Xylaria filiformis と思われる硬嚢子菌が混生する所がある。秋になれば帽菌がおびただしく生じ、夜光るものもある。なかなか3年やそこらの滞留では、その10分の1も図し上げることはできない。実に幽邃(※ゆうすい。静かで奥深いこと、さま※)、夏なお寒い所である。
それなのに植野又一という男が、ある技手にすすめられて、この瀧の水をもって水力発電を起こし、新宮から串本まで10余里間の町村に電燈を点そうといって会社を発起し、そのために自分が管する天満銀行の金3万円を横領の廉で3年半の所刑を受けたのを、不当とし、ただ今上告中である。およそ1年も過ぎれば入獄するかもしれない。
この会社のためには、クラガリ谷の一側の民有林をすでに伐り尽くしにかかり、クラガリ谷より西側の向う山官林をおびただしく伐り尽くすつもりで、すでにその許可を得た、と右の者の書記で半年刑を処せられ、10日ほど前に出獄し、拙宅へ来た者の話である。
さて、いよいよこの滝の近傍を、このように乱伐し荒廃させて所期の水力発電ができ、永く続けることができるのかというと、そもそも一の滝(すなわち80余丈の大滝、それは80余丈かしらぬが、170年ばかり前に樹木が少なくなったために3分の1強が埋もれた。御承知のように、一の滝下にアルプス山で見る boulders のような大滑落岩塊が多いのは、この出来事の記念で、濫伐の好記念である)
、先日『大阪毎日』(今年8月20日分)によると、確かな技師の言葉では、那智の一の滝と陰陽滝との水の全力を用いても、800馬力しか力を生じないとのことである。
そんなあやふやなことを強行して、このクラガリ谷の勝景、植物を滅却するのは、いかにも惜しいだけでなく、せっかく大金をかけ岩石開鑿、山林滅除した後には、その水力を果たして乏しく水源は涸れ、数年ならずしてこの電燈会社もつぶれるとすれば、実に隋侯の珠を雀に投げうって失うようなことで、つまらないことと存じます。
那智山那智山と言えど、すでに貴下らが20余年前に見舞われたときと打って変わり、滝の辺はことごとく老杉老樟を伐り去られ、滝下へ人力車がすぐ付くようになり、滝の上は向う山官林(これも年々濫伐のため、実は数えるほどしか大木はない)□□□〔3字不明〕ことごとく禿げ山となり、わずかに今度濫伐しようとする寺山を残すほどのことなので、
寺山は大樫の密林である。古えから滝の水を蓄え、四季を通じて涸渇することはない。その実は米穀の少ない山人が常食とするのに任せ、材木の用をなさないものなので濫伐の憂えもないとしてこの樹を選び、植え付けたと申す。それなのに、昨今、大樫の木に価格が出て来たので、これを伐ろうと訴訟を起こしたのだ。
何とぞこのクラガリ谷付近は、一切保安林とするように御運動願いたいのだ。たとえ水力電気のことが頓挫して官林の濫伐は止まるとしても、その近傍の民有林がこのように濫伐されるときは、いろいろの弊事を生じ、ついには久しからずして、この谷も濫伐する方がましというように荒廃することとなるだろう。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収