証拠品の古文書
小生が初めこの姦徒より承ったのは、証拠品が150点とか300点とかあったとのことである。しかし、小生が知るところでは、熊野三山の荒廃がはなはだしい今日、新宮には足利時代の神宝文書があるが、本宮には何もなく、那智には神宝3,4件残すだけである。目録は多少あるが(それも小生の手元にはあるが、那智山にはただ今あるかないかはわかららない)、何という証拠などはない。
しかしながら150点も300点もあるとは、じつに希代のことと存じておりましたところ、今回彼輩入獄の理由は、噂によれば文書偽造の廉(かど)であるとのこと。大抵、このような古文書は、文体前後を専門の文士に見せたらすぐに真偽はわかるものでございます。それなのに、このようなうろん過多の証拠品をを取り上げ、日本有数の山林をすぐに下げ渡ししたことは、はなはだ怪しまれ申します。かの徒の書き上げの中にも、3万円は運動費(悪く言えば賄賂)に使った、と書いてあります。
こうして、色川村のみの下げ渡し山林を伐れば20万円が村へ入る。
1戸に割り付けたら知れたものである。このうちの12万円は弁護士に渡す約束とのこと。つまり他所の人々が濡れ手で粟を攫み、村民はほんの器械につかわれ、実際1人につき2,3銭の利益を得るだけである。さて、霊山の滝水を蓄えるための山林は、永く伐り尽くされ、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿げ山となり、地の者が地に住めないこととなることでしょう。
維新のとき諸藩侯伯の城を取り上げたなど、止むを得ず無理を行なったことが多い。大阪辺には、これがために諸藩へ金を貸したが返らず、今は乞食などをする人がはなはだ多い。それすら国家大事には致し方ないとあきらめているのだ。それなのに、足利、豊臣、北条、また南北朝のころの証文が、たとえ実際にあったとして、山林を下げ渡しせねばならないほどの効力があるものではない。
ことに、南北朝のころの証文には、実際自分の手許にない財産不動産を寄付の文書が多い。すなわち勝って手に入ったなら、そのときは間違いなく寄進する、ということで、熊楠が100万円の小切手をふり出すのと同じことである。新田義宗など、当時身を容れるに由なく、死んだ年月住所さえわからない。そんな人の寄進状に何の効力があるだろうか。十年の役(※明治十年の役。1877年の西南戦争のこと※)に西郷が出した紙幣を正貨に引き換えることをむりにせがんで求めるのと同じである。
よって思うに、このような古文書を証拠として、今後も維新前のことを争い出し、山林土地返付を求めるのを許せば、その弊に堪えられなくなるので、何とぞ少々の無理はそのまま押し通し、名勝の地の山林など、すでに官林となり国有となったものは、一切いかなる理由があっても人民に下げ渡ししないよう、願い上げたいことである。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収