拾い子谷
Kumano Hongu- Taisha 熊野本宮大社 01 / urawa
本宮の大社であったことは、小生もこれを疑わない。しかしながら、これまた本宮領であったということは、旧神官の末葉鳥居などというものが訴訟して、拾い子谷(ひらいごだに。東西牟婁郡の間、80町にわたる。熊野には今日熊野街道の面影を100分の1たりとも忍ばせるところはここがあるだけである。
ただし、古えの熊野本宮参詣の正路ではない。大学目録に、野中とあるのはこの谷のことである。
宇井縫蔵が近頃見出したキシュウシダ、小生発見の葉のない熊野丁字ゴケ、また従来四国で見出していたヤハズアジサイ、粘菌中もっとも美艶なる Cribraria violacea その他、小生は一々覚えていないが、分布学上珍とするに堪えるものがはなはだ多く、歩いて行くのに少しも険しくないため、相応の保護を加え、一層繁殖させるには、もっとも植物学の実験をなすには好適な地である。
この拾い子谷の他に、田辺から本宮に行く間に、今日、雑樹林が繁殖した所といっても半町もない。少々あるのは例の杉林で、杉林の下には何という珍しい植物はないことは御存知の通りである)、
この拾い子谷も、行政裁判所ではすでに鳥居らの手に渡ったが、この者はこの谷が手に入らないうちから大放蕩を始め、そのため負債が多く、負債のためにこの林を人に押さえられようとするのを見て、一味の者どもが大いに慌て、ただ今私訴を起こし、互いに攻伐中である。
さて山林中の要部、すなわち杉、檜などの林は、本年6月か7月の『日本及日本人』に河東碧梧桐の俳日記に出ていた通り、ことごとく皮を剥がし、誰が訴訟に勝っても必ず死ななければならないようにしてあるのだ。実に残酷極まる不仁の所行である。それから前に申す雑木林すなわち希珍の植物が多い部分は、シデ、ミズウメ(ケヤキの一種)、サルタ(ヒメシャラノキ)など、あまり利にならないものばかりなので、今もそのまま置いてある。
この訴訟連の1人は小生の知人で、冒険の徒ながら小生のことはよく聞くので、小生は家内の病気が少しよくなり次第みずから行き、何とか1日も濫伐を延期させようとし、その者もすでに応諾しているので、この上、その者と小生と2人して村人関係者に説けば、たぶん少し時間を引き延ばすことはできるだろうが、小生には有力な後ろ楯がなく、言わば無鉄砲に虚言を吐きに行くようなものなので、はなはだ面白くないのだ。
何とかして、那智のことはまず右の様で、ちょっと濫伐はしないから、
知事みずから色川その他8ヵ村ばかりの人民総代を自邸に招き、伐木を思い止まるように諭したが、なかなか聞き入れず、いろいろ説いた上、無理に納得させ、保安林にしたのだ。これをなすのに津田ら奸徒が世にいては、なかなか面倒なため、その間、旧罪を追って入監させた苦衷と相見えます。要は、このようなうろんな訴訟を充分審査せずに、偽文書を採用した行政裁判所の大手落ちでございます。
また新聞紙が報ずるところによれば、かの奸徒輩は、那智の神官、氏子総代らと共謀し、那智夫須美神社が津田から16万円の借金があると偽証文を作らせて、実際、津田が山林下げ戻しの運動に出した金は3万円であるのに、13万円丸儲けし、その返礼に3万円を神官以下に贈与の約束で、この偽証文を新宮裁判所に提出して、即時山林差し押さえ強行公費を求め、認可を得るところを、かねて犯罪構成を待ち設けていた警官に家宅捜査を受け、津田はじめ神官らも、すでに田辺監獄未決囚中に収容されたという。
右の拾い子谷(一部は西牟婁郡、一部は東牟婁郡)の雑木林を保安林にすべきよう至急御運動を願うのだ。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収