古蹟の保存
白井権八の死んだ目黒も古跡である。村井長庵が処刑された小塚原も古跡である。上州には巨盗国定忠次の古跡がある。当国根来には石川五右衛門の古跡がある。古跡古跡と言って古人が一挙手一投足した所を標榜しているが、その限りないこと、美術美術と言って町の中に流布している春画を集めるよりもはなはだしいだろう。
今日何の実際の関係もない飯田町へ馬琴の像を建てたり、不忍池畔へ季吟の碑を建てたり、目黒へ小紫、二ツ又へ高尾、泉州堺に曾呂利新左衛門、九度山へ真田左衛門佐、樫井へ塙団右衛門、若江堤へ木村重成、八尾へ長曾我部盛親、穢多ヶ崎へ蒲田隼人と、まるで大阪の軍評定のように、それぞれへ記念碑を差し立てられるのも、ますます後日、真をかきまぜて、古を失う原因となるだろう。
それよりは人の名は知れずとも(また上古のことは、帝家の旧記である記紀の他にその書物がないので、わかるはずがない。ただし八百万の神のうちにはわれわれ下民土人の祖神もむろんある。その祖神の伝説もむろんいろいろと土俗俚諺となり、古神社に付属して存在しているのだ。アビニシア人は、日本の皇室よりその国王メネリクの系統がはるかに古いといって自慢し、ロシア人は、その国に隷属の諸王室は世界中で古いものだけを集めていると自負する。しかしながら、わが国の皇室や身分の高い人だけでなく土民非人までもが、おのおの神の末裔にして、その神祇それぞれその社を伝え、その俚伝が下々にまで下ってあるのはたいへん優っていることだ)、
俚諺、古俗、また発掘の古器物、四辺の地の地勢地層の変遷などに照らし合わせて、われらの祖先が古くから日本にあり、日本固有の風俗徳化があったのを証明するものが多いので、なにぶんにも要らない碑石などを新たに立てることを止めて、現存の古神社をひとつでも多く保存し、無智無識の神職を神林神殿まで滅却して増置するには及ばず、最寄りの小学校の教師にでも神職を兼任させ、そして後日、徐々に神職その人を得て俸給も社領税を積み立てて支払いできる日を待たせたいことだ。
長寛年間中、勅して伊勢熊野の神の優劣をお問いになったことがある。今も、その伝は失われたが、この辺に春日神社の神森を有する者が多いのを見て、藤原氏権門の人々がいかに熊野を尊信し、その近所に荘園を有したかを知ることができる。
しかしながら、肝心の本宮社司相攻伐することはなはだしく、那智はまた山徒が2つに分かれ相闘い、新宮も争乱が絶えなかったため、社伝などというものの多くは失われ、本宮のごときは元禄ころにすでに何の伝もなく、天野信景のような全く他州の人にその伝記を作ってもらいに行ったということが『塩尻』に見えている。ましてや、維新後は我利我欲の者の巣窟であったので、伊勢に並んで旧儀を見るべきものは三山にははなはだ少ない。
しかしながら三山を離れては、多少旧を考えることができるものがある。たとえば那智村の浜の宮の王子の社殿などは、五彩をもって描き、幸いに両部神道の社殿はいかなるものであったかを知ることができる。(小生の知人の中村、田代などという村人の抗議が激しく、今日まで合祀を免れている。)
また日高郡丹生川という山村の丹生明神社などは、その社殿は本宮番匠鳥居某が本宮の成規通りに建てたもので、大いに他の神社と異なる。(今は合祀されてしまい、神体は焼き失われたが、小生が村人に教えて社殿は保存させてある。この神殿前に古い狛犬がある。異様な作りをしていて一枚木の木塊から成る。いずれも木の理条が整然として虎の模様をなしているのだ。村の者は何とも思わないが、このような珍奇なものが僻地の社には多い。これらを徐々に取り調べて学術、史学上に役立たせずに、川へ流したり焼き失わせたりするのは、じつに無恥無惨なことと存じます。)
当地に近い神子浜(みこのはま)という所に神楽神社というのがある。小生は土地の伝承を考えて、必ずこの近くの土地に古塚があるはずだと言った。2年前にこれを聞いてその土地を買収し、夜分ひそかに発掘してインベ11を得て、私蔵する人がある。それから小生は、このようなことを話すのはかえって科学上有益な古蹟の滅却を早めるものと思い、そんなことは一向に言わないでいる。
この他、考古学上小生が気づいた塚などは多い。昨今も1、2見つけ出し、盛んに掘っており、警察署へ届けよといったところ届けても受け付けないとのことで、つまり発掘品は散乱される他ない。前年、和歌浦で貴人の塚と思われるものを7,8個、並んで発掘したのを見る。小生は小欲な男で、また後難を恐れ、何ひとつ貰っておかなかったのは遺憾である。掘り出し物は全て散乱した。きっと由緒のあったものであろう。またなくとも学術上の参考品であることは無論である。
また当国第一の官幣大社日前宮の横を10年前歩いたが,田畑のなかそこにもここにも古塚だらけであった。それなのに、昨夏行ってみたところ、ない。この大社の宮司は神社濫滅の総発頭人だけあって、銭にさえなれば何でもよい、と何の気もつかず開拓破却したのだ。古土器などは地下に置いていたとしても何の功もないものなので、これを掘り出して世にあらわすのは埋めた人の面目ともなることであろうが、今日のごとく胡乱に掘り次第、採り次第、売り次第というのは、はなはだ学術上に損害があると思われる。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収