西の王子
当県知事は、前日内務省地方長官会議に一本大臣から参られ、帰って訓令を出し、神社合祀は決して勝景を害しないと言った。しかしながら、本邦に神社ほど勝景に関係あるものはないことは欧人も知るところで、わが国のような薄弱不耐久の建築では、どんなに偉大な建築を施しても、到底ローマ、アッシリア、インド、イスラム教国の石造り、れんが造りのものに及ぶはずがない。
(だから、往年チガコ出版の "Monist" 紙上に、開化の定義の1つとして、建築が後代に永く遺り、たとえその国民が滅びても建築が伝わるものでなければ真の開化ではないと言った学者があったのは、至極珍しいことながら欧人の気質を発揮していて面白い。)
近日の『大阪毎日』に菊池幽芳氏が書いたように、欧州の寺院等は建築だけ宏壮で樹林池泉が勝景を助けることがないから、風致ということは一向にない、というのも至当の言である。
今わずかに五千円やそこらの金を無理に算段して神社を立派に立てたところが、豪州木曜島帰りの出稼ぎなどが帰って来てこれを見て、何だこれはメルボルン郊外の曲馬小屋にも及ばないというに違いない。現に和歌山の県庁、れんが造りで立派になったと聞いて、十年ぶりに去年和歌山へ帰省し拝見したが、欧米に半生を過ごした我が輩にはシンガポールのラシャメンの妾宅ほどにも見えなかった。
せっかく自国固有の伝説通りに古人が意を込めて経営した神社などをつぶし、埒もない間の子に社殿を立て、ペンキ塗りの白鳥居やブリキ覆いの屋根などを立てるよりは、やはり北条泰時が大廟をほめたように、素朴簡易にして、しかも近づくべからず、樹林森々として風に琴音を出すほうがありがたく思われる。ギリシア・ローマの早世期の神社の風として、今の美術社会に尊ばれるものは、みなこのようなものである。
なので、千円や二千円の木造社殿やブリキ屋根を新設して得たりと誇る当県知事などは、じつに風流雅尚を解せぬ俗物で、せめては歳時記の1つでも買って俳句でも稽古させたいことである。
例として封入する。
(1)西の王子は出立の浜と称し、脇屋義助、熊野湛増、また征韓の役に杉岩越後守など、みなこの出立の浜を出船したのだ。
御存知の通り熊野兵は昔よりどちらともつかず、ただ報酬の多いほうへ雇われたこと、『平家物語』、『太平記』で知られる。南北朝ころは、薩摩、大隈まで加勢に行き、また戦国には北条氏、里見氏までも援兵に雇われました。悪いことのようだが、ハラムの『欧州開化史』にも、傭兵(マーセナレー)が起こってから戦士は本気になって働かず、ある戦いに3日とか数万の傭兵が仏国で大戦争し、戦死者おおよそ3名、それも大酩酊のうえ馬に乗って行ったため馬から落ちて思いがけず死んだのだと知れ、敵も味方も阿呆らしくなり、ついに戦争も少なくなった、とあったように思われます。
そうであるならば、ちょっと牽強ではあるが、慶元の際、邦人が戦争に飽き足りたときに熊野兵のようなものがあったため、いよいよ戦争がつまらなくなり、ついに徳川三百年の太平を享けるに及んだと、こじつけることもでき、恐縮ながら赤十字社などや和平会議の先鞭をつけたものの史跡として保存すべきものである。
古老に聞くと、関ヶ原の役に、杉岩の兵がここから出で立ち、徳川へは徳川方、石田へは大阪方であるような通牒をして、そろそろと船出の用意をして行くと、和歌山まで15日かかる。さて和歌山へ着したところ、家康から状が来て、関ヶ原で大勝したゆえ目出たく引き取ってくれとのことで、熊野兵は大いに喜び半日の間に田辺へ無事着いた、と。
そして、この神社は無双の勝景で、熊野九十九王子の1つであるのに、村人が二千五百円まで基本金を積んだが聞き入れず、五千円を積むか神社を合祀せよ、そうしなければ氏子総代を入牢させようと、堀という郡書記が脅迫を加え、止むを得ず合祀したが、今でも社費を納めず、合祀先の本社へ1人も参らず、祭日はこの神社跡で神体なしに行い、神主の代わりに近傍の坊主を招き、経を読ませ、神やら仏やらさっぱりわからず、よって懲らしめのため、この神社跡の樹林を一切濫伐せよとの命令を下し、村民が小生方へ走って来て、小生が弁解して事が済んだ。
無双の勝景地であるだけでなく、この樹林を伐らなくてさえ大風雨のとき、土砂が崩れ官道を損じて、人家を潰すので、原敬氏が内務大臣であったとき、合祀訓令にあったように、由緒来歴だけでなく、地勢にも顧み、神林はたとえ神がなくとも保存されたいことである。(ウバメガシ、シャシャンボ、クスドイゲなどの雑木と松だけなので、伐ったところで何の益もないことである。)
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収