神社は地域の大財産
今日でも、東西牟婁郡および日高郡には、小生の説を受け入れ、多少残存している神社はある。またすでに合祀はされながら、そのあと地跡、建築そのまま残っているものもある。
はなはだしい場合は人民が屈強で、ついに復旧したものもあり、和歌山県庁も、最初、神社をなるべく多く潰して高名を得ようと心がけ、自治政成績展覧会を一昨年ごろ高野で催したとき、神社を滅却した数が多いのを自治成績の一に数えたて、特に他県に抜きん出て、最初は500円であったのを5000円まで基本金を上げ、5000円の基本金のない社をことごとく合祀し(実際に5000円を積むことができる社はひとつもない)、また1村1社の制を設け、直径5里6里往復の大村にすら1社しか残立を許さない。
これがため、御承知の熊野九十九王子社、すなわち諸帝王が一歩三礼しなさった熊野沿道の諸古社は、3,4を除きことごとく滅却、神林は公売にされた。
しかしながら、小生が中村啓次郎氏に託し、平田〔東助〕大臣に滅却濫伐の惨状の写真を示すと、大臣は大いに驚き、訓示があった。それから基本金がなくとも維持の見込みのある社は存立を許すこととなったが、困りきったことには、当県知事はなぜか実際を知らない人で、さらに1社ごとに神職をおくべし、神職のいない社は滅却すべしという。もし神職を置こうとするならば、何とか西洋の寺領税(バリッシュ・タクス)のように、徐々に事を進めて、毎月、毎年、毎戸より積み立てさせて後に置けばよい。
神職はただ今、それにふさわしい人がなく、いずれも無学無頼の者ばかりである。別に差し上げました、本日の『牟婁新報』拙文でご覧くださいませ。この輩にただ今、急に俸給をやったところが何の功もなく、少々のさばり出すと、例のごとくニューヨーク辺の天主教長老同様に、今日の教育が気に入らぬとか、丘浅次郎氏の進化論、石川千代松氏の化醇説は、天皇陛下を猿の子孫というもの、国家に対し不忠など自分の卑劣な心からとんでもないことを言い出し、教育改進に障害を及ぼす及ぼす輩ばかりである。今日すでにこの辺では、神主に俸給をやりながら何の功もなく、諸社兼務が多いため、大祭日の祝典を2日3日延ばすことが多い。
米国にも英国にも、僧なしの熱心なキリスト教徒がある。当国にも、近ごろ僧いらずの新仏教がある。僧や神主はほんの教えを伝える方便である。この辺の民は千古神を敬し、朝夕最寄りの神へ詣り、礼拝讃唱するのを楽しみとし、一家安全の基としているのだ。従来このようにして何の不足なく数百十年を経歴し、神社もまた何の不足なく維持して来たからこそ、今日合祀の大難にあったのだ。
およそ金銭はどんなに多く積もるとも、扱いようでたちまちなくなる、いたって危ういものである。樹木も財産である。確固たる信心は、不動産の最も確かなものである。これを売ってこれを潰し少々の金にしたとして、一度失えばもう返ってくることはない。神主どもが貧乏になるのはみずからの不注意である。このような者に金を増し与えたとして、神道が盛んになることはない。
後年、公園公園と騒いで多大の金銭を投じ、村民の楽しみの場を買い戻そうとしても、なかなかできることではない。また欧州でも、最寄り最寄りの公園には必ず礼拝堂、十字架が設けているのを案じて、いよいよ我が国の神社は、これ本来の公園に神聖慰民の具をそなえている結構至極の設備と思い、外国人が常々うらやむ通り、さしたる多額を費やさずに、村々大字小字に相応の公園があり、寺院があり、加えて科学上の諸珍物を生存させるアサイラム(※asylum※)として保存されたきことである。
たとえ樹林を伐り、建物を滅しても、いたずらに破壊乱伐の悪気象を児童鈍夫につぎ込むだけである。その売上高は、決して樹木、神宝、生物、景勝をそのまま保存し、知らず知らずの間に、良朴、愛国、剛毅、不動の国風を村夫児童に教え込む大財産であることに比べることはできない。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収