巧遅より拙速で
大塔山 / み熊野ねっと
当国の山は3800尺ばかりの大塔峰(東西牟婁郡界に連なりわたる)が最高峰である。次は大雲取(3200尺)、大甲(たいこう、3300尺ばかり?)、また小生がいつも行く安堵峰(3400尺?)などである。しかしながら、これらはいずれも北国に比べたらつまらないもので、頂上は茅原リンドウ、ウメバチソウ、コトジソウ、マルバイチヤクソウなどありふれたものを散在するだけである。
それより下にブナの林がある。ブナは伐ったらすぐ挽かねば腐って粉砕する。ゆえに濫伐の日にはじつに濫伐を急ぐのだ。この半熱帯地にブナ林があるのもちょっと珍しいので、少々は残されたいことである。しかしながら、目下そんな制度は少しもなく、郡長などというものは何とかしてこれを富豪に払い下げ、コミッションを得て安楽に退職しようと民を苦しめ、いりもしない道路開鑿につとめることが大流行りである。
村民はこれを知らず、道さえ開けば村民にくれることと思い、必死となり道を開く。その後、郡長はすぐに退職して大富豪を他府県より伴って来て、いろいろ訴訟してその山を他県人に渡し、濫伐させ、村民は他県より入ってくる人足工夫に妻を犯され、娘を誘拐され、借金を倒され、土地の風習は瓦解し、淳朴の俗はたちまち羅刹に変じて、土地は衰微し、大水はしきりに来るようになった。
さて、それより下の山麓近い密林にいろいろ珍しいものがある。半熱帯特有の珍品にいたっては山麓または谷間また低原の神社の神森にのみ生を得るものが多い。
当地に近い稲成村の稲荷神社の神林は、幸い今日まで大規模に伐り取られることなく、ヨウラクラン、カヤラン、ミヤマムギラン、シソバウリクサ、ホングウシダ、シャクジョウソウなどが多いだけでなく、小生が図した帽菌はおよそ400ほどある。粘菌中 Enteridium 属と LIndbladia 属は、じつは別属ではなく同一属であることを証明することができる標本なども、ここで取った。これも例の俗吏が神林を掃除せよと度々命ずるので、腐葉土がなくなっていき、毎年、楠やシイが枯れていく。
こんなことゆえ、もし愛国心とか古風俗を観察するとか地誌郷土誌とかのことは閣下らに関係ないとしても、なお三好教授が言われたように、備前とか伊賀とかいう国と違って、当国は海産も山産も野産も、生物が半熱帯と温帯との交錯点なので、その考究はじつに学者に必要である。
ゆえに何分にも神官の俸給は、西洋のように社領税をかけて徐々に積まさせ、また神主も徐々にその人を養成するようにし、当分は神社跡地の神森、神地など従来のように保存するように御運動くだされたきことで、ただ今このようにお手紙をしたためているうちにも、神林の滅却を迫り、神殿の破壊を迫っているところが絶えず、何とぞ巧遅より拙速で何とか早く御運動くだされますようお願いします。
「南方二書」は『南方熊楠コレクション〈5〉森の思想』 (河出文庫)に所収