本邦産粘菌諸属標本献上表啓(現代語訳)
Pink and brown slime molds / Benimoto
※これは南方熊楠の手紙ではありません。熊楠の粘菌学の門弟のひとり、小畔四郎氏が大正15年(1926年)に摂政宮(後の昭和天皇)に粘菌標本を献上したときの表啓文です。この標本の献上が後の昭和4年(1929年)の田辺湾での熊楠の昭和天皇への進講へとつながりました。※
粘菌の類というのは、原始生物の一部に過ぎないが(※熊楠は粘菌は原始動物の一部と考えていましたが,摂政宮の生物学の講義をしている服部広太郎博士から原始生物とせよとの指示があり,やむを得ず原始生物としました※)、大気中で結実するので,一見植物の一部である菌類の観がある。このことから動物学者と植物学者は互いにこれを自家研究内の物と思わず、相譲り避けて久しく留意してこなかった。
西洋では、承応3年(西暦1654年)ドイツ人パンコウがルコガラ属1種の発生する状を図して速成菌と名づけたのが粘菌の最初の記載であるが、その後200年間著しい科学的研究はなされなかった。安政6年(西暦1859年)ドイツ人デ・バリーが粘菌説を著してその本性を論じ、その門弟から出てきたポーランド人のロスタフィンスキーが明治8年(西暦1875年)に粘菌譜を作ってその分類を講じてから、諸国はようやくその専攻の学者を出し、研究が盛んになった。
支那では、唐の段成式の『酉陽雑俎』に、「鬼矢は陰湿の地に生じ、浅黄白色で、ときどきこれを見る。瘡を癒すのによい」の短文がある。その詳細を知ることはできないが、たぶんフリゴ属の粘菌の原形体は突然発生して形色すこぶる不浄に似ているので、この名を与えたのであろう。そうであるならば西洋人に先立つことおよそ800年、支那人はすでにこの一類を知って記載していたのだ。
それなのにその後1000年の間,東洋人が粘菌類に一言も言及したのを聞かない。帝国が産するところの粘菌に至っては明治の初年に外人が小笠原島に産するわずか数種を採集して調査定名をしたことがあるが、明治35年理学博士が草野俊介が集めた18種をケンブリッジ大学に贈り,故英国学士会員アーサー・リスターがその名を査定して発表したのを、秩序整然とした本邦産粘菌調査報告の最初である。
和歌山県人南方熊楠は、明治19年に海外に渡り欧米諸国に遊学すること14年、その間,西インド諸島で粘菌などを採集して創見するところがあった。故英国学士会員ジョージ.モレイの勧めにより、帰朝後,粘菌の研究を続け、新種新変種はもとよりその発生、形態、畸病などについても創見するところが少なくない。大正2年「訂正本邦産粘菌類目録」を出して108種の名を並べ、大正10年に、かつて英国菌学会長であったグリエルマ・リスター女史は南方発見の1種に拠って新たにミナカテルラ属を立てた。
臣四郎が熊楠の指導により内外諸国で何年と採集したものに、右の「目録」が出てから熊楠および同志諸人が集めたものを合わせて現時帝国産粘菌を点検すると、じつに38属193種を数え,そのうち外国に全くないものが約7種ある。
現今世界中から知られている粘菌全53属約300種のなかで、英国は44属200種ばかり、米国は41属223種を出すのに対して遜色はあるが,帝国にこの類の学が開いて日がなお浅く研究者が少ないのを考えればかえってその発達の著しいことを認めないわけにはいかない。
今回台覧の恩命を拝戴し、1種あるいは数種の標本をもって邦産粘菌の各属を顕わし、全90品を撰集して献じ奉る。ただし邦産38属の内、ラクノボルス属の標本は解剖し尽くしたのでこれを省き、オリゴネマ、ジアネマの2属は邦産の標本がきわめて少ないで英国生の品で代用した。願わくは嘉納あらんことを。臣四郎恐惶謹んで言す。