粘菌(ねんきん)
粘菌は現在では変形菌(へんけいきん)といわれます。
「菌」と付きますが菌類ではありません。
変形して移動し微生物などを捕らえて食べて成長する変形体と、まったく動かないキノコの様な子実体という2つのまったく異なる生活スタイルを持つ、特異な生物です。
我々の身近にごくありふれた生物ですが、あまり知られていません。
南方熊楠(1867年~1941年)が自宅の柿の木から発見した新属新種の粘菌は「ミナカテラ・ロンギフィラ(Minakatella longifila)」と命名されました。
私が見かけた粘菌
粘菌
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳17)
その頃は、熊野の天地は日本の本州にありながら和歌山などとは別天地で、蒙昧といえば蒙昧、しかしその蒙昧なのが、その地の科学上きわめて尊かった所以で、小生はそれから今まで熊野に留まり、おびただしく生物上の発見をなし申した。例を挙げると、ただ今小生が唯一の専門のように内外の人が思う粘菌などは、東大で草野俊助博士が28種ほど集めたのに過ぎなかったのを、小生は115種ほどに日本の粘菌の総数を増やし申した。その多くは熊野産である。さて、知己の諸素人学者の発見もあり、ことに数年来小畦氏が発奮して採集に集中してから、ただ今、日本の粘菌の総数は150余り、まずは英米2国を除いては他の諸国に対して劣位におらぬこととなっている。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳23)
小生は田辺にあって、いろいろの難しい研究を致し申す。例えば、粘菌類と申すのは動物ながら素人には動物とは見えず、外見菌類に似たことが多いものである。明治35年夏、小生は田辺近傍の鉛山(かなやま)温泉でフィサルム・クラテリフォルムという粘菌を見つける(これはほとんど同時に英人ペッチがセイロンで見つけて、右の名をつけた)。その後しばしばこの物を見つけたが、いずれも生きた木の皮にだけ着いている。
およそこの粘菌類は、もっぱら腐敗した植物のなかに住んでこれを食い、さて成熟に及んでは、近所の光線に向かえる物の上に這い上がって結実成熟するのだ。それなのに右の一種に限り、どんなに光線の工合がよくても、死んだ物には這い上がらず、必ず遠くとも生きた物に限ってその上に這い上がり、結実成熟するのだ。それより小生はこのことに注意して不断観察すると、10種ほどの粘菌はひとつの例外もなくこのように生き物の上に限り這い上がって成熟する。
このことを粘菌学の大権威リスター女史(これはむかし眼鏡屋主人で顕微鏡に大改良を加えたリスターという者の後胤で、初代のリスターは眼鏡屋ながら学士会員となった。その後代々学者を輩出し、リスター卿に至って初めて石炭酸を防腐剤に用いることを明治8、9年ごろ発明し、医学に大功があった。その弟アーサー・リスターは百万長者で法律家であった。暇あるごとに生物学に志しついに粘菌図譜をだして粘菌学の大権威となる。小生は初めてこの人に粘菌の鑑定を乞いて、おいおい学問致した。
リスター女史はその娘である。一生嫁がず粘菌の学問だけを致し、今年あたり亡父の粘菌図譜の第3版を出す。それに小生が自宅の柿の木の生皮から見つけた世界中で唯一の属に、女子が小生の氏名によってミナカテルラ属を立てた1種の3色版の画が出るはずである。たぶん昨年出たことと思うが、曽我十郎が言ったように、貧は諸道の妨げで、近来忙しくて文通さえ絶えている)に報告してから、女史が学友たちに通知して気をつけると、欧米その他にも、小生が言う通り、生きた物にかき上ってだけ初めて結実成熟する粘菌がまた10余種(すなわち日本と外国と合わせて20余種)あることがわかった。
ご承知の通り連盟とか平和とか口先ばかりで唱えるものの、従来、またことに大戦以後、国民や人種の我執はますます深く熱くなってゆき、したがって国名に関することには、いかに寛大篤学の欧人も、常に自国人をかばい、なるべく他国人をけなし申す。したがってこの、ある粘菌に限り、食うものは腐ったもの死んだものを食いながら、結実成熟には必ず死物を避けて生きた物にとりつくことを必要とするということも、小生と別に英国のクラン Cran という僧が、小生と同時に(もしくは少し早く)気づいていたように発表され申す。
まことに苦々しい限りで、当初この発見を小生がリスター女史に告げたとき Cran などという坊主のことは聞き及ばず、リスター女史がみずからきわめて小生の報告を疑い、正確に小生が検定した、生物にだけ身を託して初めて結実し得る諸粘菌の名を求められた状は今も当方にあるのだ。それなのに、小生の発見確実と見るや、たちまち右の坊主を選定して小生とその功を分かちまたは争わせようと致された。万事こんなやりかたでで、日本人が自分の発見を自分で出版して自在に世界中に配布するのでなければ、とうてい日本人は欧米人と対等に体面を保つことはできない。リスター女史などはじつに小生に好意の厚い人であるが、それすらこのようなので、その他は知るべし。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳26)
この他に粘菌類に、フィサルム・グロスムというものがある。これは他の粘菌とちがい、初め朽ち木を食べて生きず、地中にあって地中の有機分を食い、そして成熟に臨んで地上に現われ、草木などにかき上って成熟するが、なかでも土壁や石垣などの生気のないものに這い上がって成熟することが多い。明治34年に、小生は和歌山の舎弟の宅の雪隠の石壁に、世界中のレコード破りの大きなものを見つけた(直径3寸ほど)。去年の秋、小畦氏邸の玄関の靴ぬぎ石についていたものはもっと大きかったらしい。他にもアフリカ辺にこのように土中に生活する粘菌2、3種見つけ出されたのを知る。
これは先に申した、生きた物につかなければ成熟しないものたちと反対に、なるべく生命のない物を好むとは妙なことである。朽ち木腐草などを食って生活するよりも、有機分の少ない土の中に活きていては体内に接種する養分も少ないはずで、したがって成熟した後の大きさも、生物を食うものたちに比べて小さいはずだが、事実はこれに反し、普通、生物の腐ったのを食うものたちよりも数百倍または千倍の大きさである。これをもって見ると、滋養分の多い物を食うから身体が大きく、滋養分の少ない物を食うから身体が小さいというわけにはいかないと見える。このことを研究したくて、右の畑にこの粘菌をも植え、不断その変化を見ているのだ。
また妙なことは、粘菌類が活動しているうちの色は白、紅、黒、紫、黄、緑などいろいろあるが、青色のものはなかった。ところが、大正8年秋末に、この田辺の知人で杓子かけ、くらかけ、ちりとり、鍋ぶたなどを作って生活する若い人が妙なものを持って来た。春画に見える淫水のようなものが土の上に滴下している。その色がペレンス(※鉱物顔料のひとつ※)のように青い(きわめて快晴の日の天または海の色である)。
小生はこの人が戯れに糊に彩色を混ぜて小生を欺きに来たかと思ったが、ついでがあったためその宅に行き件の物を生じた所を見ると、ちょうど新たに人を斬ったあとのように、青い血が滴り飛んでいる体である。およそ3尺ほどの径(わた)りの所(雪隠の前)の地面の中央には大きな滴りがある。それより四方八方へやや長くなって大きさ不同の滴りが飛び散っている。その滴りを見ると、蠕々(じゅじゅ)として動くから粘菌の原形体とわかり、大きな樽の栓をその辺へころがしておいて、この淫水様の半流動体がこの栓に這い上がり、全くこれを覆ったなら持って来いと命じて帰宅すると、翌朝、持って来て栓が全く青色になっている。
さてその栓を紙箱に入れ、座右に置いてときどき見ると、栓の全体を覆った青色の粘液様のものが湧きかえり、そのうち、諸所より本当の人の血と変わらない深紅の半流動体を吐き出す。翌朝になって下図(※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第4巻〉動と不動のコスモロジー』 (河出文庫) 346頁)のようなものとなり、すなわちフィサルム・グロスムという粘菌で、多く栓の上の方に登って成熟していた(灰茶色が普通だが、このときに限り灰茶色で外面に青色の細粒をつけていた。しかし、数日の後、青色の細粒は全く跡を留めなくなった)。
昔から支那で、無実の罪で死んだものの血は青くなり、年月を経ても、その殺された地上に現われると申す。 周の萇弘という人は惨殺されたが、その血が青くて天に冤罪を訴えたという。また倭冦が支那で乱暴して回ったとき、強姦の上殺された婦女の屍の横たわった跡に、年々青い血がその女の姿形に現われたということがある。これはこの粘菌の原形体が成熟前に地上に現われ、初めは青いが、次第に血紅となるので、これを碧血と名づけ、大いに恐縮したことかと思って、ロンドンの『ジョーナル・オヴ・ボタニー』へ出しておいた。
とにかく、従来かつて無例の青色の原形体を見たのは小生ひとり(およびむろん発見者である匠人とまた小生の家族)で、なぜ普通、この種の粘菌の原形体は淡黄なのに、この一例に限り青色であったかは今になっても一向にわからず、この研究のためにもその種を右の畑にまき、日夜番しているのだ。
南方熊楠の手紙:浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳11)
その冷雲師の孫に、陸軍大学教授であった日本第一の道教研究者妻木直良師がある。22年前、例の小生が炭部屋で盛夏に鏡検最中のところへ来て、いろいろと話す。ちょうど小生は粘菌(※変形菌※)を鏡検していたため、それを示して、『涅槃経』に、この隠滅する時かの陰続いて生ず、灯生じて暗滅し、灯滅して闇生ずるがごとし、とある。
そのように有罪の人が死に瀕していると地獄では地獄の衆生がひとり生まれると期待する。その人がまた気力を取り戻すと、地獄の方では今生まれかかった地獄の子が難産で流産しそうだとわめく。いよいよその人が死して眷属の人々が泣き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく。
粘菌が原形体として朽ち木枯れ葉を食いまわること〔図(イ)参照〕やや久しくして、日光、日熱、湿気、風などの諸因縁に左右されて、今は原形体でとどまることができず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子たちが、あるいはまずイ'なるなる茎となり、他の分子たちが茎をよじ上ってロ'なる胞子となり、それと同時にある分子たちが(ハ)なる胞壁となって胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子たちが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風などのために胞子が乾き、糸状体が乾いて折れるときはたちまち胞壁が破れて胞子が飛散し、もって他日また原形体と化成して他所で繁殖する備えをする(※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第3巻〉浄のセクソロジー (河出文庫) 335頁※)。