南方熊楠邸:和歌山県田辺市中屋敷町36
熊楠が1916年(大正5年)以降1941年(昭和16年)に永眠するまで終の住まいとした邸が現在も田辺市中屋敷町に保存されています。
隣には南方熊楠顕彰館ができました。南方熊楠顕彰館への入館は無料ですが(特別展開催期間中は有料になる)、南方熊楠邸を見学したい場合は観覧料が必要です(大人300円、2008年10月時)。
それまで借家住まいだった熊楠は1916年、50歳のときに田辺の中屋敷町に家を弟名義で購入。
約400坪の敷地には2階建ての母屋があり、土蔵があり、貸家2軒などがありましたが、熊楠は前に住んでいた借家に自分の設計で建てた「博物標本室」をここに移築し、書斎としました。(下の写真は書斎。現在の南方熊楠邸には母屋、土蔵、書斎が現存します。貸家2軒はなく、熊楠没後に新たに建てられた2階建ての別棟があります)。
現在の南方熊楠邸には、貸家2軒はなく、代わりに熊楠没後に建てられた2階建ての別棟がありますが、母屋と土蔵と書斎は熊楠が利用したものが保存されています。
書斎には熊楠が愛用した机が置かれていました。この机は、顕微鏡を除くのに便利なようにと、手前の2本の足が短く切られ、傾斜がつけられています。
熊楠はこの書斎で隠花植物(菌類、地衣類、藻類、蘚苔類)や粘菌などの標本を作り、菌類の彩色図を描き、英語で論文などを書き、日本語で書簡などを書きました。
今の書斎はきちんと整とんされていますが、熊楠が使用していたときは顕微鏡やら書籍やら書きかけの原稿やらで自分が坐る場所以外は足の踏み場もないほどに散らかっていたそうです。
土蔵は2階に分かれていて、1階は書庫として使われ、数万点もの文献や抜書などが中性紙に包まれて収められています。2階は動植物の標本室として使われました。
文章を書くとき、熊楠は文献を取りに、書斎と土蔵の書庫とを何度も行き来したそうです。
2階の標本室にあった隠花植物標本や彩色図は現在、茨城県つくば市の国立科学博物館筑波実験植物園の標本庫に収められています。
邸内にはクスノキや安藤みかん、柿、センダンなどの木が生え、庭が熊楠の植物研究の場所であったことが想像されます。
熊楠存命時の庭には、菌類や粘菌を生やすために、いくつもの種類の朽ち木が山と積まれ、落ち葉は積もるがままにされていたそうです。
邸を購入した翌年(1917年)には邸内の柿の木から新属新種の粘菌を発見しています。のちにイギリスの粘菌学の権威ガブリエル・リスター女史により「ミナカテルラ・ロンギフィラ」と命名され、発表されました。南方の名を付けられた新属新種の粘菌が発見された柿の木はいまだ健在です(右の写真)。
邸内で最も大きな木はクスノキ。
「世が現地に樟(くす)の樹あり。その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熱からず、屋根も台風に損せず、急雨の節、書斎から本宅へ走り往くを援護す」と、自分の名の1字にある木でもあるので、このクスノキには特別の愛着を抱いていました(左の写真中央がクス)。
クスノキの傍には安藤みかんの木が植えられていて、夏みかんのような実を成らせていました(右の写真)。熊楠は安藤みかんの実が成っているときは毎日、搾ってジュースにして飲んでいたそうです。いま生えている安藤みかんの木は熊楠存命時に生えていた木ではなく2代目。熊楠存命時に生えていた数本の安藤みかんは熊楠が亡くなるとその翌年には後を追うようにみなばたばた枯死してしまったそうです。
進講の知らせを受けたときに邸内で花を咲かせていたのはセンダンの木。センダンは別名、樗(オウチ)ともいい、進講の知らせを受けたときの喜びを熊楠は「ありがたき御世に樗(あふち)の花盛り」と詠みました。臨終の床で熊楠は天井いっぱいに咲く紫の花の幻覚を見たそうですが、その紫の花とはセンダンの花であろうといわれています(左の写真中央の葉が目立たない木がセンダン。これも熊楠存命時に生えていた木でなく2代目)。
(てつ)
2008.10.12 UP
み熊野ねっと「熊野の観光名所/南方熊楠邸」より転載、加筆訂正
(元記事は2003.5.5 UP)
アクセス:JR紀伊田辺駅から徒歩15分 和歌山県田辺市へのアクセス 南方熊楠顕彰館 tel:0739-26-9909 開館時間:AM10:00〜PM5:00 (入館時間は、PM4:30まで) 詳しくは南方熊楠顕彰館HPへ |
南方熊楠顕彰館の地図:
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