粘菌と涅槃経
Plasmodial Slime Mould, the wierdest thing on Earth. / panvorax
もと当国有田郡栖原の善無畏寺(ぜむいじ)は明恵上人の開基で、徳川の末年より明治の14,5年まで住職であった石田冷雲という詩僧がいた。あんまりよく飲むので割合に早世されたけれども、冷雲師に就いて漢学を学んだ弟子たちには、明治大学長であった木下友三郎博士、郵船会社の楠本武俊(香港支店長またボンベイ支店長)など、その他10単位で数えられる知名の士がある。
その冷雲師の孫に、陸軍大学教授であった日本第一の道教研究者妻木直良師がある。22年前、例の小生が炭部屋で盛夏に鏡検最中のところへ来て、いろいろと話す。ちょうど小生は粘菌(※変形菌※)を鏡検していたため、それを示して、『涅槃経』に、この隠滅する時かの陰続いて生ず、灯生じて暗滅し、灯滅して闇生ずるがごとし、とある。
そのように有罪の人が死に瀕していると地獄では地獄の衆生がひとり生まれると期待する。その人がまた気力を取り戻すと、地獄の方では今生まれかかった地獄の子が難産で流産しそうだとわめく。いよいよその人が死して眷属の人々が泣き出すと、地獄ではまず無事で生まれたといきまく。
粘菌が原形体として朽ち木枯れ葉を食いまわること〔図(イ)参照〕やや久しくして、日光、日熱、湿気、風などの諸因縁に左右されて、今は原形体でとどまることができず、(ロ)原形体がわき上がりその原形体の分子たちが、あるいはまずイ'なるなる茎となり、他の分子たちが茎をよじ上ってロ'なる胞子となり、それと同時にある分子たちが(ハ)なる胞壁となって胞子を囲う。それと同時にまた(ニ)なる分子たちが糸状体となって茎と胞子と胞壁とをつなぎ合わせ、風などのために胞子が乾き、糸状体が乾いて折れるときはたちまち胞壁が破れて胞子が飛散し、もって他日また原形体と化成して他所で繁殖する備えをする(※図は本で見てください。『南方熊楠コレクション〈第3巻〉浄のセクソロジー (河出文庫) 335頁※)。
このように出来そろったのを見て、やれ粘菌が生えたといいはやす。しかしながら、まだ乾かないうちに大風や大雨があると、一旦、茎、胞壁、胞子、糸状体となりかけた諸分子がたちまちまた跡を潜めてもとの原形体となり、災害を避けて木の下とか葉の裏に隠れていて、天気が回復すればまたその原形体が再びわき上がって胞嚢を作るのだ。原形体は活動して者を食い歩く。茎、胞嚢、胞子、糸状体と変化しそろった上は少しも活動しない。ただ後日の繁殖のために胞子を擁護して、好機会を待って飛散させようと構えているだけである。
ゆえに、人が見て原形体といい、無形のつまらない痰(たん)様の半流動体と蔑視されるその原形体が活物で、後日の繁殖の胞子を守るだけの粘菌はじつは死物である。死物を見て粘菌が生えたと言って活物と見、活物を見て何の分職もないため、原形体は死物同然と思う人間の見識がまるで間違っている。
すなわち人が顕微鏡のもとで眺めて、それ原形体が胞子を生じた、それ胞壁を生じた、それ茎を生じたと喜ぶのは、じつは活動する原形体が死んで胞子や胞壁に固まり化するので、一旦、胞子、胞壁に固まろうとしかけた原形体が、またお流れとなって原形体に戻るのは、粘菌が死んだと見えてじつは原形体となって活動を始めたのだ。
今もニューギニアなどの原住民は死を憐れむべきこととせず人間が卑下の現世を脱して微妙高尚の未来世に生まれるための1段階に過ぎないとするのも、むやみに笑うべきではない。