男色
戦国の世にはこんなことがあって天下に名高く故事となっていて、その故事を引いてまた同じことを行なったものもあったのだ。我が国でこれに似た例は、後陽成天皇の御若姿を関白秀次が隙をうかがい狙って、それが罰に当って秀次は横死したという説があり、いかがなことであろうか。
また斎藤道三は主君の土岐頼芸の寵妻を奪い長子を生ませ(じつは主君の子)、その長子に後年弑せられたほどの女好きだが、同時に主君の長男(太郎法師丸という)の男色相手を愛し、しばしば恋文を通わせ、太郎法師が主従の礼を欠くことは奇怪であるといって、道三を誅せんとして成功せず、それから父も子も道三に国を追い出された(一説に、太郎法師は道三に弑せられるとあったと記憶します)。
また織田信忠は秀吉を念者(※ねんじゃ:男色関係の兄貴分※)とし、とくに懇意であった。叔母のお市の方(浅井長政の寡婦、淀君の母)が浅井滅後、後家住まいしていたのを、信忠が世話して秀吉の妻としようとしていたうち、信忠が光秀に弑せられ、信孝の世話でお市の方は柴田の後妻となった。これから柴田・羽柴の戦いが始まったとされる。やや後でも近衞信尋公(じつは後陽成天皇の第4子)は若姿がことに艶やかでいらっしゃったので、福島正則、伊達政宗、藤堂高虎らがたびたび茶湯などに託して行き通ったという。
近頃の考えからは不思議なことのようだけれども、右の嚢成君や鄂君子晳のこと、またこの近衛公のことなどは、ただ後庭を覗くために詰めかけたこととも思われない。今日の人にわかりやすく申すならば、東京などの高名な芸妓へ高価な物を贈り、千金を散じて種々の人が押しかけるのも、あながち100人が100人、その前庭を覗くのでもない。いわゆる「せめては言の葉をやかかると」で、一言の挨拶にあずかり、一句の短冊でも書いてもらって一生の面目と心得たことと存じます。それを近頃見に来た外国の調査員などが、芸妓と女郎を同一視するような根性では、さっぱり無茶である。
清朝に成った『品花宝鑑』をひもといても、いわゆる梨園の子弟の優物たちとその交客との交情を見ると、主として文章を取り交わし、玄談風流に耽った次第をのみ述べてある。それと同時に卑穢極まる連中が、理髪師の弟子とか洗濯婆のせがれとかに酒を飲ませ、寝鳥をさし糞がほとばしり出たとか、脱肛したとかの醜状をも記してあります。
また古ギリシアでもアテネのように、高士偉人の間を容姿が清らかでひいでている眉目の少年がめぐり歩いて玄談歌詠すると、ある島ではたびたび少年をかつぎ去って無理矢理に押し込み、はなはだしい場合は輪姦したなどのことがある。どこの世界でもいつのときでも、清濁ふたつながら行なわれるのは、まさに当然のことで、浄があり不浄があり、浄であって不浄を兼ねたものもあったと知ることができる。
また貴下が示されたなかの下婬の例にいたっては、前状で申し上げた小草履取りなどは、その著しい例で、阿波の三好長元のような者がえたの子の美貌なのを小姓に取り立てたのを亡国の兆しだと国人が非難したとのこと。山岡明阿の『逸著聞集』に、花園右大臣有仁(これも後三条帝(?)の皇子で、人臣に下ったのだ)が車の牛を使う少年を車のそばに随身がいない折を伺い、車中に召してすばやくきこしめしたことを記す。パリで今日も自動車使いの美少年を車中で犯すことが多いのと同じようである。明阿の件の著は戯作であるが、実際に左様なことが多かったと察せられます。