美少年との別れ
ちょうど9月の終わり頃で、右の医師邸の2階に一泊すると、にわかに騒ぎ出す。何事かと聞くと、医師の妻がこれまで5男まで続けて挙げたのに(19歳と16歳と13歳と6歳と3歳)、また今春から孕んでいたのが、ただ今産気づいたのだといい騒ぐ。
これでは到底今夜は眠ることはできまいと思い、2階の窓を開けて海上を見渡す。鰹島といった岩礁だけの小島に銀波が打ちかかり、松風が浜辺に颯々として半ば葉隠れに海上の月を見る。その風景は何とも口筆で述べられない。われは当分この辺の風月を鑑賞するのも今夜限りである。知らない他国に行き、どれほどその面白い目や辛い目にあって、いかに変化して、いつの日か帰国し、またこの風月を見ることができるのかと悲しく感じ、いつの間にか明くる朝の4時となる。
そのとき家内がまた騒ぎ立つのを聞くと、これまでと変わり今度は女の子が生まれたのだ。すでに子が生まれた上は、我輩が1時間留まれば1時間の厄介をこの家にかけることだと思い、朝霧が四方を取り巻いていてまだ日光も見ないうちに急ぎ告別して出立して、かの長男が日高川河畔(清姫が衣を脱ぎ柳の枝にかけて蛇となり、川を泳ぎにかかったという天田〔あまだ〕という地)まで送りに来る。いわゆる君を送る千里なるもついに一別すで、この上送るに及ばずと制して幾度も互いに振り返って後ろを見て、各々の姿が見えなくなるまで幾度も立ち止まってついに別れた。
それから東上して60余日奔走し、12月の初めに横浜解䌫の北京市(シチー・オブ・ペキン)という当時の大船で30日めにサンフランシスコに到着し、いろいろの有為転変を経て在外14年と何ヶ月の後、英国から帰朝してみると、両親はすでに他界し、幼かったものは人の父となり、親しかったものは行方がわからないものも多く、件の羽山家の長男は一度は快気して大阪医学校(今の大阪帝大医学部の前身)に優等で入学したが、1年ほどしてまた肺を病み、帰村して1,2年で死亡。次男は小生と別れたとき16歳であったが、26歳まで存命、東大の医科大学第2年まで最優等で押し通し、もとより無類の美男の気前よしのため、女たちの方にも最優等で、はなはだ人の受けがよろしかったが、これまた病みついて日清戦争が終わって間もなく死亡。三男、五男、それから小生渡外後に生まれた六男まで、いずれも学校優等であったが、30歳にならぬうちに死亡、ただ四男であるものひとりが残る。
この家は積善の人で代々続いたのに、いかなる理由でこのような凶病にとりつかれ将棋倒しに子供が死に失せたかというと、その頃は今と比べて一般衛生の観念がことに田舎では稀薄で、小生が泊まっている間でも、毎度肺病人を自宅向かいの家に置いて、いわゆる出養生所としていたのだ。そんなものを処置するには、自宅に出入りさせずに厳しく自宅と出養生所との区別を立てなければならないが、そんなことに考えが及ばないうちに、病気の毒素が自宅のどこかに潜入したことと思う。
よって多くの家内のうち1人が死んだとき、急いで用意してまったく家を他へ移すか、また土でも入れ替え、井戸を掘り改めたらよかったけれども、それまでは思い及ばなかったことと思う。
この子供らの父ははなはだ徳望家で、当時は、人力車に乗り診察にまわると、病家は車夫に幾分のチップを与えるという風習があった。それを気の毒がって、老後、自転車を修練するといって過って落ちて、脳卒中を起こし死んだのだ。