浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳20)

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浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳)

  • 1 浄愛と不浄愛
  • 2 上婚下婚
  • 3 男色
  • 4 宦者
  • 5 妹尾官林で山ごもり
  • 6 川又官林へ
  • 7 二人の美少年
  • 8 美少年との別れ
  • 9 変態心理
  • 10 二人の美少年の妹ら
  • 11 粘菌と涅槃経
  • 12 相似
  • 13 美少年の妹ら
  • 14 美人王子
  • 15 粘菌学進講の前に
  • 16 わが思いの貴婦の一念
  • 17 浄の男道
  • 18 その世の人となる
  • 19 複姓
  • 20 粘菌学進講の後に
  • 21 幻像
  • 22 友愛

  • 粘菌学進講の後に

    神島
    神島 / み熊野ねっと

     小生は外国にあったときはずいぶん重く用いられたことがある。大英博物館など読書室や研究室に入るには少なくとも7日前に届け出を出すことが必要だが、小生の紹介があれば規則は規則であるが、特に日本人の旅費滞留費を節約するために即日から入室できる便宜を与えられた。ただ今傲然として社会に立ち小生らには一顧も与えない人士で、小生の口添えでこの便宜を得た人は少なくない。

    それなのに、自分が一向に外面を繕わず、学校に入らず、学位を取らずに帰朝したため、小生の弟などは小生を畜生扱いである。また小生は金銭のことは今に至るまで一向関知せず、年中裸でいる。それを奇貨として、小生の実印を預かっているのに乗じ、小生の知らない間に亡父の遺産をことごとく自分の物に書き換えた。

    ゆえにただひとりの倅は小生が頓死でもすると、この宅は取り上げられ、住所もなければ金銭もなくなる。どのようにして母(小生の妻)を養うことができるかを心配して、折から(6年前)高知高校受験に土佐へ渡る船中で精神病を発し、今によい知らせがない。特別看護人をおくため、月々70円また80円送らなければならない。まさか生物学の研究費から盗み出すわけにも行かず、つまるところ65歳の小生が眠る時間を減じて研究の外に翻訳の通信教授ということをして倅の入院費を拵えなければならない。ずいぶん昼夜骨が砕け申すのだ。

    世はさまざまである。骨肉、しかも同父同母の弟で、このようなことを仕向け、小生の家内が病人だらけなのに、夫婦して長唄の稽古などして日を暮らす者もあれば、見ず知らずの人で小生の拙文に感じ入り、安い給料の勤め人の身で30円(この人の月給の半分)を研究費に送られた人もある。一介の水兵で日給50銭を蓄えて10円贈られた人もあるのだ。

    ことには九重の深きに渡らせたもう尊勝にして(※?※)、この僻地いまだ汽車もない僻邑にある小生を召され、親しく進講を許されなさったのは、人間の栄耀これにまさる面目はないと、みずから恐悦また感悦いたした。進講が済んで後、旧知の加藤寛治大将(当時の海軍軍令部長)が控え室に来て祝福され、いろいろと在英のときのことなどを談じた。その後、東京から送り越された書面に、

      過日は久方振りに拝姿、相変わらず神気満身の御風格で御研究に超越あそばされ感動いたしました。その後もたびたび貴下の御噂が宮中で出て、皆々が敬慕いたしておられます。小生もいま一度貴地に遊び、大自然の美と幽とを味わい、かつ奔放不覊な大人と快談の幸を得たく切望しております、(下略)。

     また御召艦で同大将と直接した話で、誰様であったか、しかとお名前は承らなかったが、右の山田家に2泊したときの歌句どもを書いて同大将に贈った状をそのままご覧に入れたところ、まことに面白いが難読極まると仰られたといって一笑されました。

     貴下がもし「今の世にも果たして浄の男道があるのか、せめて一例だけでも示せ」と仰せられるなら、「小生の身がすなわちその一例である」とあえて言わんがために長々とこの状を走り書きしました。小生はまことに字が下手で、自分でもこの状は読みかね申します。しかし、これまた修飾せず改竄せず走り書きのまま差し上げたところが事実を書いた話にふさわしく存じます。

     神島という島に御臨幸、小生が拝謁した地点に諸友の出資で600円ほどで大阪の名工に彫らせた碑、高さ1丈3尺ほどのを建てました。

         昭和天皇臨幸之聖蹟
      一枝も心してふけ沖津風
      わが大君のめでましし森ぞ

         昭和五年六月一日      南方熊楠謹詠并書

     右の拙詠は佐々木信綱先生に見ていただいた。
      吹く風も心してふけここはしもわが大君の……
    と直されたが、小生は、それは歌の稽古のためには謹んで拝受し、秘跡へは件の拙詠を筆しました(※実際に碑に彫られたのは字が少し違って「一枝もこころして吹け沖つ風 わが天皇のめでましし森ぞ」※)

    拙筆ゆえ右に申す川島草堂に字割を6時間もかかって施してもらい、それから一筆に書き成しました。いつもと違って天皇のご威光によってまずは無難に出来上がり申した。

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    「浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他」は『南方熊楠コレクション〈第3巻〉浄のセクソロジー (河出文庫)に所収

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