浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳19)

浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳)

  • 1 浄愛と不浄愛
  • 2 上婚下婚
  • 3 男色
  • 4 宦者
  • 5 妹尾官林で山ごもり
  • 6 川又官林へ
  • 7 二人の美少年
  • 8 美少年との別れ
  • 9 変態心理
  • 10 二人の美少年の妹ら
  • 11 粘菌と涅槃経
  • 12 相似
  • 13 美少年の妹ら
  • 14 美人王子
  • 15 粘菌学進講の前に
  • 16 わが思いの貴婦の一念
  • 17 浄の男道
  • 18 その世の人となる
  • 19 複姓
  • 20 粘菌学進講の後に
  • 21 幻像
  • 22 友愛

  • 複姓

     ご承知のように西洋に複姓が多い。小生の知人にサー・シスルトン・ダイヤーという人がいた。昨年84,5で死んだ王立植物園の園長で、小生がもと農商務次官であった前田正名氏を連れていき饗応されたことがある。Thistleton-Dyerという苗字である。ThistletonもDyerも別々の苗字である。松井南方のようである。

    いま松井家の末主不幸にして子女なく、財産をそのまま置いて頓死でもすれば、どこかの消防人足とか、どこかの軽業小屋の下足番とか、ひどい場合は下等な売春の世話人(若い衆)とかが、わが5代前の先祖はかの富人の6代前の祖先の甥であったなどと訴え出る。寺の記録を見てそれに相違ないとわかると、政府は死人の遺産を幾分割り引きして、残りを死人が生前何の面識もなかった赤の他人以上である下足番などにやるのだ。

    まことに不人情なことで(この点日本人よりは祖先を崇拝し、家系を尊び重んずるかもしれないが)、それを嫌う人々は生存中、他人ながらまことに自分に尽くしてくれた者を見立て、『日本紀』などに見える名代部(なしろべ)のように、自分の苗字をその者の苗字に加え、自分で実の系統は絶えてもせめて苗字だけは、後世へ残れとの執心より(日本ならば松井に南方を加え、中に挟まった2字を省略して、松方とでもすべきところだが、そんな気も付かないのか、旧風を守る一念からか)、シスルトン(金を譲る人の苗字)を譲られる者の苗字の前に置き、今までダイヤー氏であった者が、シスルトン・ダイヤー氏を唱え、子孫代々その複苗字で押し通し、それでこの家は亡シスルトン氏の後を継いだ者、ただし家の出所はダイヤー氏ということを明らかにするのだ。

    シスルトン・ダイヤー氏の始祖は、何が気に入られてシスルトン氏から財産を受けたか知らないが、このような複姓で通る家のうちには、少年が老翁の介抱などして気に入られたことから身を起した者も多くあることと考えることができるのだ。

      近頃、本邦の文筆に携わり学問を仕事とする人々の言動に、小生らが若かったときに比べても、また小生らが欧州にいたときの欧州人の言動に比べても、ちっとも理解できないことが多い。ただひとつ例を挙げると、前日の『犯罪科学』に、某氏が東京の公園に出ていた男娼や、ことに梨園の子弟が男色を外部の人に提供する概況を記し(後に抗議が出てひとまず編集者が取り消した)、その序引に、「本文は現時の男娼の売淫の状況を書いたもので、思うに活学問である。埒もない塵だらけの古書旧文を穿鑿して、面白くもなく、またわかりもしない無駄な言葉を述べたものと違う」という意味のことを初めに書き出してあった。

      かつて森鴎外か誰かが『大阪毎日』か何かへ一文を出したのに対し、社内の誰かが鴎外の件の文は取るに足らないという意味の、反論でなく嫌味を述べたことがある。貴下の文も鴎外の文も、すぐさま飛んで来て紙面に現われたものではなく、必ず編集者が左右選考して、これは十分理由の立った文として初めて印刷公示するのだ。

      それなのに、社内の者で同紙へ文を掲げる者が、何の利益もないのに、これを出すに足らないものとか、取るに足らないものとかそしるのは、その人が何か筆者に私怨でもあってこれを洩らすのだろう。そうして最初貴下や鴎外の文を是認して掲載した編集者が、次にまたその文をそしる文を出して平気でいるのは、前日自分がこれを掲載したときの判断は不全不良であったとみずから暴露するものに他ならない。

      誤謬を指摘せず、理由を明言せずに、ただ彼の書くことはつまらない、彼の説は取るに足らないなどいうのは、単に人のしたことを嫉む小児の意地でございます。編集者は寄書を掲載することの可否を判断する任に当たるもので、第一の文を掲載したからには、何という理由を示さず誤謬を指摘せずしてこれをそしるような文を出さないのがわかり切った徳義と存じます。

      小生の知るところ、このような文を2つとも掲載するような編集人は欧米では見及ばなかった。そして、昨今の邦人はそんなことは何でもよろしく、甲文を読むときは乙の心、乙の文を読むときは乙の心で、何という判断も煩わさない者が至って多いようでございます。

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    「浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他」は『南方熊楠コレクション〈第3巻〉浄のセクソロジー (河出文庫)に所収

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