浄愛と不浄愛
昭和6年8月20日午後5時書き始め11時55分終わり、さっそく差し出す
岩田準一様
南方熊楠再拝
拝啓。16日付けの御状、今朝7時半に無事に着きました。折から海辺から変な動物持って来てくれた人があり、死なないうちにいろいろと生態の観察を終えて酒精に浸し、このために時間を潰し、ただ今御状を拝読し、本状を差し上げます。
細川政元のこと、小生から申し上げる前にお気づきになり『大心院記』をご覧なされたとのこと。この政元が弑せられたことは、小生らが幼年のころ(明治10年ごろ)誰も彼もが読んでいた頼山陽の『日本外史』にも出ている。
そのころの小学または私塾教師などは、いずれも当今の先生どもよりははるかに日本の事歴に通じており、また古老の話などをも聞き覚えており、政元は寵童がいるためにややもすれば近臣らがこれに私通しないかとの疑念から人を疑うことが絶えず、戸倉も疑われていた人で、ついに弑逆に及んだところへ来合わせた家臣波々伯部が戸倉に切られ、後に戦場で戸倉を殺したと、教師はほとんどみな語られていた。
しかしながら『野史』に波々伯部を寵童と書いてあるのにようやくこのごろ気付き、不審に存じ取り調べたところ、前日お知らせ申し上げた通りわかりました。このようなことは小生から申し上げるまでもなく早晩お気付きになることと察しておりましたところ、やはり小生から申し上げないうちにすでにお気づきとのこと、今回の御状で承り、まことに御達眼、感心し上げ奉ります。それほどの御眼力がある上は、この上小生らより何事についてもとくに申し上げることはないと大いに安心つかまつります。
御来示の通り、浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものでございます。小生は浄愛のことを述べた邦書(小説)はただひとつ知っています。これは五倫五常の友道に他ならないため、別段五倫五常と引き離して説くほどの必要はない(もし友道というものが今日のごとくただお座なりの交際をし、知り合いとなり、自他の利益をよい加減に融通するということならば、それは他の四倫と比肩すべきものではない。徳川秀忠が若いとき、どこまでも変わるまいとの契約をしたのを重んじて、関ヶ原の戦い後零落していた丹羽長重を復封させ、直江兼続が最後まで上杉景勝に忠を尽くしたように、今日のようなつきあい、奉公ぶりという程度のことでは決してないと存じます)。
また貴状に見えた年齢云々のことは論外で、戦国ごろは大抵(馬琴も説いたように)24,5までは元服せず、これを大若衆と称え、いわば女の年増に相当して、むかしは大若衆が好まれたということ、京伝などの書いたものにも見え、大若衆の図も出ております。北条氏綱ごときは、北条綱成(有名な美童で川越その他の戦で天下に名を挙げた勇将)をたしか23,4でもとどりを取りあげさせたと白石先生は書いております(ギリシアの哲学者には50,60までともに老い、同棲した者が少なくない)。不浄の方にしても自分の父ほどの役者に馴染む放蕩者が多かったことが、西鶴、其磧らの書に多く見えます。