わが思いの貴婦の一念
Hot pink slime mold / Benimoto
27年前に見つけておいた海に棲む蜘蛛(ギゲスと申す)をとりに行ったが、当日大風波で船人らが船を出さない。ところが上の述べた川島草堂が知るところの漁夫がどこかの下女に子を生ませ始末に困ったのを見かねて自分方へ引き取って小学へ通わしてやった。
その漁夫はこれが恩に報いる日であるといって、棒組に向こう見ずの伊三太的な大力の力士兼船頭をひとりを説得し、小生と川島と4人で船を出す。海上はひどく荒れて鬢などが転がりまわり、小生の衣服はラムネと海水でびしょぬれになってしまった。また鼻の穴と耳に海水が浸入して頭が鳴り出す。
しかし、必死に漕がせてその蜘蛛のいる海洞に近づいたが、波が荒くて入ることができない。よって小生は上陸し、1人は船に留まり、他の2人は岩壁を九死を侵してよじ下り、わずかながら8匹まで生け捕り、巣もひとつとり収める。帰りは夜になり、いっそう危険だから、小生と草堂は徒歩で帰り、船人2人は船を操縦して夜分に帰ることができた。
こんなことで疲労はなはだしく、かつ進講しすべき粘菌を助手なしにことごとく箱に装置しなければならない。4日4夜のうちただ1日、朝5時から7時までの間の時計の音を聞かなかったので、その間だけまずは仮寝したと思う。進献品ができあがって浴して身を浄め終えると、はや出頭の時刻である。
それから神島へ渡るが、当日船が揺れて何の考えも思いつかず、何を進講してよいかお先真っ暗であったが、島で拝謁、進献品について奏上、次に御召艦で、進講も幸いに標本をそれこれ見計らい持参したから、次へ次へと標本の出るのに任せて奏上して退くまで、例の鼻をすすったり咳のひとつも出さず、足の一歩も動かさずに事が済んだのは、まったくラ・ダム・ド・メ・パンセー(わが思いの貴婦)の一念が届いたものと限りなく殊勝に感じた。
後で聞くと、家にいて無事を念ずるよりはその近辺へ出かけて声援否念援しようといって、姉妹2人は長途馳せ来て、御召艦出立まで立ち続けていて、いよいよ煙が立ち波が湧き出すのを見て帰宅の途に就いたとのことである。