粘菌学進講の前に
山田の従兄も御坊町へ帰るのに付いて羽山の別荘で琴やら裁縫やら歌俳諧に茶湯やら英仏語やらを教えて、故平沢哲雄氏の遺児を守っている吉村勢子女史へいい送る、
妹尾に山居せし折、逗子海岸なる吉村勢子よりそこの景気はいかにと問ひおこせたりければよめる 南方熊楠
わが庵は奥山つづき谷深くのきばに太きつらら(氷柱)をぞみる
(平沢哲雄氏は、タゴールを連れて来朝させた三土忠造君の弟。もと和歌山県知事、今は衆議院議員と記憶する宮脇梅吉氏の妻の弟。この人は米国へ8歳のとき渡り、まるで欧米人のようである。『大菩薩峠』の駒井甚三郎そのままで、まことにおとなしい人である。
震災のとき、永井荷風方へ逃げのび、それから小生に頼みに来て、本山氏に会い、『大毎』派出員か何かの名義でパレスチナ、パリなどに遊び、帰ってまもなくチプスになり、自由結婚の妻の腹に鮒を盛り込んだまま置き去りにして冥途へ旅立たれました。この人特製の法螺の音が太い。
平沢氏の説のひとつというのは、その人と知らずにかたわらに行って特異の霊感に打たれた人は一生に2人、ひとりはポーランドの初代大統領パデレウスキー、いまひとりは熊楠とのこと。この人の世話で小生は岩崎家から研究費1万円もらった)
それから、あんまり長居すると顔に似合わない情深い人と別嬪から乞食女まで押しかけて来るから、よい加減に3日めの夕に切り上げ、自動車で45分走って田辺の自宅へ帰る。さて妹尾で橇車ですべり下ったとき、固く橇のふちをつかんだため手に凍傷を生じ、癩病のように紫斑を生じ痛み悩むうち、2月初めに、宮城内生物学研究所主任服部広太郎博士が来られて、6月に御行幸があるから拝謁進講がなるかとのことで、重ねて4月24日に電信があり、よって御受け申し上げる。20年来辛苦し保存した神島で拝謁、夕刻御召艦長門へ召され、大臣、将官ら20方ほど侍坐の席で、陛下の御前に席を賜り進講いたします。
岡崎邦輔氏からの来信に、小生のごとき政府や役所に何の関係もない無位無勲の者を召され御言葉を再三賜ったのは従前無例とのこと。御臨幸の前に小生は一書を山田の妻(名は信恵〔のぶえ〕)に遣わし、
「44年前の春、尊女の長兄と小舟を仕立て鉛山温泉へ渡った。ちょうどその舟が渡った見当の所に、今度御召艦がすわるのだ。ついてはひとつの頼みがある。熊楠は生来放逸で人を人とも思わず、これが大瑕で一切世間にもてない。それなのに今度この御命令があり、いささかも無礼不慎のことがあっては一族知人たちみなの傷となる。
仏経に、慧は男が女に勝り、定は女が男に勝るという。自分は何を信じるという心がけもないので、このような場合に神仏に祈念しても誰がこれを受けるだろうか。そこがそれ深川の小唄にもある『むかし馴染みのはりわいさのさ』で、尊女の長兄次兄とずいぶん近しい仲だったから、尊女がかの2人に代わって当日、熊楠が無事に進講を済ましてくれればこれを越える身の幸いなしと、一心不乱に念じてくれ。熊楠は自分に失態あっては尊女の一生に傷を付けるものと思って、どんなに気に入らないことがあっても無事をはかろう」といいやったところ、
「空蝉の羽より軽い身をもってそんな大事に当ることができるとは万にひとつも思わないが、お申し越しの通り全力を尽くそう」との返事があった。しかる上は安心と決定して進講の準備にかかる。