友愛
貴下らは、小生がこのような変なことを、このように長文で綴って肝心のキノコの写生を怠り、おびただしい時間と労力を空費したのを笑うかもしれない。貴下ら門外漢にそんな軽笑されるほどのつまらないことを、このように何の必要もないのに多大な紙筆時間を費やして書くところが、小生の友愛の厚さである。
それを笑う人は、自分がそんな目にあったことがなく、そんなことを聞いても何も感じないので笑うのだ。男女が心中死したと聞いて検死の人にその性具の大小を問うたり、水死の女を救い上げて活を入れ気付け薬を与える前に、急ぎ股間を覗くようなものである。
故ハーバート・スペンサーは「橋の上を通ってたまたま小児が川に落ちたのを見ていたましく思わない者はいない。ただしすぐさま飛び込んで救いにかかる人は100人に1人であろう。そして、その1人を訪ねて履歴を問うてみよ。必ず自分がかつて水に溺れたことがあるか、もしくはその父兄姉妹が水死した者であろう」と言ったが、これはもっとも千万な言葉と存じます。
まずはこんな事情だから、これほどの経歴がありこれほどの自信がある人でなければ、数百年前の男道を小説に作るなどということは至難の技で、例のハースー式の枕本の書き割りまがいの物の他はできないだろうと存じます。もし清き男道のことを書こうとするならば、古ギリシアの関係文書を熟読し、また本邦の武士道の書どもを考察してから後にとりかかられるべきだ。酒井潔とか梅原某のように、ただこれをひとつの娯楽淫戯としてとりかかるならば、男女関係に似て、しかも奇形不具極まるものの他は、どうもがいても出来ないだろう。
小生は近頃目も手も10年前ほどにはきかない。こんな長い状を書くのは、これが終わりで初物であろう。貴下が辛抱強くこのことを調査するのを我が身の若きときに引き比べて感激するのあまり、ふつつかながらこの長文をしたためたのだ。ただ今11時頃であろう。この状を書く間にもいろいろと俗事が噴出し、いわゆる座暖まらざるの歎あり。
そのうち今朝7時半に件の山田妻から70日振りに一状来る。第四女が病気で切断しなければならず和歌山市に上っていて旅舎から出した状である。その筆と文の巧みさに、田舎にもこんな才媛淑女がいるのかと驚かされる。茶、花、絃歌、舞踊、みな一通り心得、平生は深くみずから包み隠しているほど奥ゆかしい女である。
鉛筆で走り書きの末にほんの走り書きの2首がある。成っておるのか成らぬのかは、小生は判断できないが、亡兄たちを常に思う情の濃さは十分に見ることができる(この歌はわからない字がだいぶんあるので、これは写すことを見合わせます)。下女が昼飯を促しに来たから(小生が箸を下ろさなければ、この者が食事にかかることができない)、いよいよこれにて擱筆つかまつります。
貴下がご不審の50条とか、略書して送り越されるならば、詳しいことは答える暇がないだろうけれども、せめたはないよりは勝るくらいの返事を申し上げましょう。しかし、近頃いろいろの問いを出して来て低頭平身の体で望まれるから、できるだけ要領を得た返事をすると、それっきり何とか博士とか何とか教授より得るところが多かったのを深く感謝するとあって、小生からの返事を満載しながら(ただし文章文体は変革して)、小生には一言も感謝の言葉を載せないものが多い(欧米にもそんなものがはなはだ多くなって来た。世界一同から不人気であると見える)。それではつまらない。
早々不宣