宦者
Okuno-in cemetery, Koyasan / Aschaf
さる大正9年、むかし小生がロンドンにあった日の旧知、土宜法竜師は高野山の座主であり、しばしば招かれたため、今年の勧業博覧会で一等賞金印を得た当地の画家、川島草堂(この人は橋の上で炭の屑を使って画を独習して育った人である。久○大宮も7年ほど前に和歌山望海楼に召して席上で画を描かせご覧になった。小生むかし南ケンシントン美術館に雇われ、河鍋暁斎の画稿を多く調べたことがある。他の画のことは知らないが、狂画の腕はこの人のが暁斎の次と存じます)と同伴して金剛峰寺へ30余年ぶりに尋ねました。
そのとき、座主はとくに小生のために金堂に弘法大師将来の古軸若干をつり下げ示された。そのなかに大日如来の大幅がひとつあった。何とも言われぬ荘厳で美麗なものであった。その大日如来はまず24,5歳までの青年の相で、顔色桃紅、これは草堂の話によると珊瑚末を用い彩色したものとのこと、1000年以上のものながら大日如来が生きているかと思うほどの艶やかさがある。例のくちひげ、あごひげなどは少しもなく、手足はことのほか長かった。これは本邦の人が気がつかないが、宦者の人相を写生したものです。日本には宦者がないため、日本人にはわからないのです。
さて宦者もいろいろあって、普通椒房を監視するためのものと、また別の漢高の籍○、考恵の閎○、蜀漢の黄皓など、もっぱら色をもって主人に寵愛された宦者がある。古ペルシアその他に、敵国を滅ぼして敵王の子を去勢し、その色を愛した王が多い。アレキサンダーがもっとも寵愛した美人は、女ではなく宦者であった。
またローマのネロ帝のごときは艶后ポッペイヤ(※ポッパエア※)に死なれて自身死のうとするまで憂えたが、スポールスという少年の顔がポッペイヤと間違えるほどであったことから、これを去勢し、婦女の間で仕込んで女同然にし、大礼を挙げてこれを皇后に立て、民衆の歓声のなか公然とこれと接吻したことがある。ネロが弑せられて次に立った帝はまたこの者を寵愛したが、その次に立った帝はこのようなことが大嫌いで、スポールスが節操なく、前帝と同時に死ななかったのを憎み、大きな恥辱を与えるためにこれを娼妓かなんかに出して立たさせ、大衆の面前で戯場に上がらせ大恥辱な目に会わせ(強姦かなにかさせたことと察する)、スポールスはたまらず舌を噛んで自殺をしたということがある。
この宦者の心底、情操がまた、かげまとも女とも大いに変わっています。いわゆる neuter(無性)人である(小生が生まれた頃(まずは明治元年ごろ)までは、インドなどには10万近くもこの流の宦者がある。一郡一地方ごとにその王がある。夫を迎えて定まった妻となる。装飾、衣装、行儀、まるで女人のようである。賀礼などの席へ出て座持ち役をつとめ、報酬を多く得て、なかにははなはだ富める者もいる。法律上死んだ上でなければ、男やら女やら無性やら両性やらわからないため、はなはだ難しいものであった)。
次に半男女がある。ローマ帝国の全盛時に好色家は最高価をこれに払ったという。はなはだ少ないものである。両性人(hermaphrodite)である。次に、例の男色の受け手、これにもいろいろと種別がある。
婦女のことはしばらくおいて、右の3種の人の性情を実写することは、なかなか難しいです。ましてや、そんなものが現存しない本邦においてはなおさらのことで、本邦においては『男色細見菊の園』の序か何かに見えたように、明和の頃すでに芝居役者ですら専門に育て上げられた若衆形は全滅し、女形が平井権八や小姓の吉三をつとめました。それでは女になってしまって、若衆や小姓の情緒はさっぱり写らない。ゆえに貴下などには到底男色小説を書いても浄の男道のほんの一部分をも写すことは難しいだろうと存じます。