相似
およそ人間の知識をもって絶対の心理を知ろうなどは及びもつかないことであるのは、ニュートンの引力もアインシュタインの相対論でまるで間違ったものと知れた。どうして他日またアインシュタイン氏の論もまた間違いきったものと知られる日がないことを保証できるだろうか。それだから専門専門といって、人の書いた物ばかり読み、あの説ももっともらしく、この説ももっともなところがあるようだ、ええいままよとサイコロ博打であっちに加担し、こちらを受け売りして一生を終えて何の実際に役立つこともない。
それよりは、差し当たり相似をもって相似を、相似である範囲内で相似であると断定し、手近く喩えをこれに採って、及ぶだけ差し当った実用に間に合わせるのには、むかしの学識というものは専門にならなければ応用が功を奏しないものではない。
花弁が5枚の花は普通である。花弁が6枚の花の実は美味ではない。造化に完全はない。単弁花はそれほどまで美しくないが実が立派な生じて食用に堪える。八重千重の花に至っては食うことができる実を結ばないとか、角のあるものは牙がないとか(じつは過去地質期に角と牙をそなえたものがあった)、義理とふんどしかかねばならぬとか、義と女を見てせざるは勇なきなりとか、専門に細心に穴ほぜりをしたら、ことごとく間違った皮想の見解ながら、差し当たり10のうち8,9まで人天を一貫したらしい道理を見つけて世間の役に立て実際のことをそれで済ませているのだ。禅学の玄談というのは、多くはこのような不十分不徹底の道理を活用して、大いに世間の役に立てているのだ。
それなのに、今の学問は人間と粘菌はまったく同じではないということばかり論究序述して教えるから、その専門家の他には少しも役立つことがない。仏人ヴェルノアは、学識が世間の役立つものに遠いものばかりになっては世間の人は学識を念頭に置かないはずだ、と言った。
これをもって後庭を掘らせつづけて辛抱すれば、往々淫汁のような流動体を直腸内に生じて多少の快味を生ずることもないこともないなどと迂遠に無用なことを述べるよりも、水戸義公の政治は女を御するようにせよ、小姓を御するようにはするな、甲は上下ともに喜悦し、乙は上だけが悦んで下は苦しむと一概にいった方が良い教訓で世間に大いに役立つ。
貴僧なども、人間と地獄とのことを手近くわかりやすく説こうとするならば、『涅槃経』の文句を粘菌の成る成らぬで説かれよ。人々はこれを聞いて粘菌と人間は別の物ということを忘れて、一事は万事、世間はなーるほどそうしたものと手早く理解し、速やかに悟るだろうと、熊楠は四畳半ほどの炭小屋でこのように説き、妻木師はよほど感心したと見え、受け売りの備えに熊楠の説法の暗誦につとめて、ろくろく挨拶もせずに立ち去ったことがあった。
『覚後禅』に、賽崑崙が未央生に説いたなかに、真快を悦味する婦女は言語途絶し、手足冷却し気息も聞こえず、まったく死人と同じになる、このような女としてこそ即身成仏であるという意味のことを説くところがあったと記憶する。妻木師が無言で立ち去ったのもまたまたこのようであった。