豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)
豊臣秀次(1568年〜1595年)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名・関白。
秀吉の甥。1591年に秀吉の嫡男が死去したため、秀吉の養子となり、秀吉の後継者として豊臣姓を贈られて関白職を継ぎました。
しかし、1593年に秀吉に再び男子が生まれ、秀吉から疎まれます。
1595年には高野山に追放され、出家させられました。
そして同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。
豊臣秀次(1568年〜1595年)。戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名・関白。
秀吉の甥。1591年に秀吉の嫡男が死去したため、秀吉の養子となり、秀吉の後継者として豊臣姓を贈られて関白職を継ぎました。
しかし、1593年に秀吉に再び男子が生まれ、秀吉から疎まれます。
1595年には高野山に追放され、出家させられました。
そして同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。
南方熊楠の手紙:履歴書(現代語訳22)
大正10年の冬、小生は高野山に上った。布子一枚着て酒を飲んでから行って対面(法主は紫の袈裟にて対座)、小生は寒さたまらず酔いが出てきて居眠りし洟(はな)をたらすのを、法主が「蜂の子が落ちる」と言って紙で拭いてくれたところを、楠本秀男という東京美術学校出身の画師が実写して今でも珍重している。そのとき、東京か大阪のよほどの豪家の60歳ばかりの老妻が警部に案内されて豊臣秀次関白切腹の部屋を見るうち、遠く法主と小生が対座したこの奇観の様子を見、あきれて数珠を取り出し膜拝(※もはい:両手をあげ、地に伏して拝すること※)して去った。
洟たれし(放たれし)次は関白自害の場
と口吟して走って帰った。
南方熊楠の手紙:浄愛と不浄愛,粘菌の生態,幻像,その他(現代語訳3)
戦国の世にはこんなことがあって天下に名高く故事となっていて、その故事を引いてまた同じことを行なったものもあったのだ。我が国でこれに似た例は、後陽成天皇の御若姿を関白秀次が隙をうかがい狙って、それが罰に当って秀次は横死したという説があり、いかがなことであろうか。
Copyright © Mikumano Net. All Rights Reserved.