柳田國男

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  • 柳田国男(やなぎた くにお)

    柳田国男(1875年〜1962年)。日本の民俗学の創始者。
    南方熊楠(1867~1941)との文通は1911年3月に始まった。柳田国男と柳田国男の往復書簡は、
    『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集〈上〉』 (平凡社ライブラリー)
    『柳田国男・南方熊楠 往復書簡集〈下〉』 (平凡社ライブラリー)

    に収められています。
    南方熊楠の柳田国男宛書簡の一部『南方熊楠コレクション〈第2巻〉南方民俗学』 (河出文庫)所収。

    柳田國男は熊楠のことを「日本民俗学最大の恩人」と述べ(「民俗学の恩人」『柳田國男全集』第32巻、筑摩書房)、さらには「日本人の可能性の極限かとも思い、また時としてはさらにそれよりもなお一つ向うかと思うことさえある」とも述べています(「南方熊楠」『柳田國男全集』第32巻、筑摩書房)。



    柳田国男

    南方熊楠の手紙:神社合祀反対運動の終結、その他(現代語訳1)
    明治44年12月10日午前2時認

       柳田国男

    小生が白井氏へ一書を差し上げ謝ろうと思っても、読んでくれないかもれないので、貴下に寄せて本状の意を伝達してもらいたいのです。

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その40)
    一昨年出た柳田氏の『山の人生』二〇章に、予の書翰しょかんに由って上述インドの事例を略叙し、「この種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の山の神であっても、子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである」といわれた。

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その40)
    それから前年柳田氏に借りて写し置いた『甲子夜話かっしやわ』一七に、旗下はたもとの一色熊蔵話しとて、「某といへる旗下人の領地にて、狼出て口あきて人に近づく、獣骨を立てたるを見、抜きやれば、明日一小児門外に棄てあり、何者と知れず、すこやかに見えしとて、憐れんでおのが子のごとく養ひ、成長後嗣子とせり、もとより子なかりしを知りて、何方いずかたよりか奪ひ来りしとみゆ、狼つれ来りし証は、肩尖かたさきに歯痕あり、子孫に連綿と勤めおるが、肩には歯痕ごとき物あり」と載す。

    事実か否は判らないが、柳田氏の書に引いた他のはなしなみになら十分通ると察する。これで日本にて狼が人の子を育てたり、食わずに人に養わせたりの話が皆無でないと知るべし。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その20)
    これは、『阿育アソカ王伝』の摩田提マジアンチカ尊者が大竜より、自分一人坐るべき地を乞い得て、その身を国中に満たして※(「よんがしら/(厂+(炎+りっとう))」、第4水準2-84-80)賓国けいひんこくを乗っ取った話(『民俗』二年一報、予の「話俗随筆」に類話多くづ)、また柳田君の『山島民譚集』にあつめた、河童かっぱが接骨方を伝えた諸説の原話らしい、『幽明録』の河伯女かはくのむすめが夫とせし人に薬方三巻を授けた話などを取りぜた作と見ゆ。とにかくかようの譚は、瓔珞蛇ダボヤなど好んで睡る爬虫に基づいたであろう。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その22)
    また柳田氏はつちを霊物とする俗ありとて、槌の意に取ったが、予は大蛇をオロチ、巨蟒をヤマカガチと読むなどを参考し、『和名抄』や『書紀』に、こう※(「虫+礼のつくり」、第3水準1-91-50)きゅういずれも竜蛇の属の名の字をミヅチとんだから、ミヅチは水蛇みずへび野蛟のづち野蛇のへびの霊異なるをあがめたものと思う。

    南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その14)
    柳田君の『山島民譚集』に、河童の類語を夥しくあつめたが、水蛇については一言もれ居ぬ。

    南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その41)
    邪視英語でイヴル・アイ、伊語でマロキオ、梵語でクドルシュチス。明治四十二年五月の『東京人類学会雑誌』へ、予その事を長く書き邪視と訳した。その後一切経を調べると、『四分律蔵』に邪眼、『玉耶経』に邪盻じゃけい、『増一阿含』および『法華経』普門ぼんまた『大宝積経』また『大乗宝要義論』に悪眼、『雑宝蔵経』と『僧護経』と『菩薩処胎経』に見毒、『蘇婆呼童子経』に眼毒とあるが、邪視という字も『普賢行願品ふげんぎょうがんぼん』二八に出でおり、また一番よいようでもあり、柳田氏その他も用いられおるから、手前味噌ながら邪視と定めおく。


    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その15)
    いずれもその頃まで母系統を重んじた古風が残りいた証だ。柳田氏かつて越前のある神官の家の系図に、十数代の間婦女より婦女に相続の朱線引き夫の名は各女の右に傍注しあったという(『郷土研究』一の十)。八丈島民が母系を重んじたは誰も知るところだ。『左伝』に〈男女同姓、その生蕃せず〉とあるを学理に合ったよう心得た人多きも釈迦キリストなどを生じた名門に同姓婚の祖先あった者少なからず。

    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その16)
    支那では〈易州の馬※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)泉、相伝う、唐の太宗高麗を征し、ここに駐蹕ちゅうひつす、馬※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)あがきて泉を得たり、故に名づく、また馬※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)泉あり、広昌県の南七十里にあり、俗に伝う宋の陽延昭、ここに屯爰とんえんす、馬※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)きて泉を得たり〉(『大清一統志』二二)。その他和漢馬が※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)あがき出した泉の話多し(同書同巻、一九〇〇年『随筆問答雑誌』九輯六巻に出た予の「神跡考」参照、柳田君の『山島民譚集』一)。


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