甲子夜話

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    肥前国平戸藩の第9代藩主、松浦清(まつら きよし、号は静山)の随筆集。正編、続編各100巻、後編80巻。
    隠居後、20年に渡って書き続けた。内容は朝廷や幕府のことから国内外の奇談、民間の風俗まで多岐に渡る。江戸時代を代表する随筆集。

    現在もっとも入手しやすいのは、平凡社東洋文庫の『甲子夜話』全20巻



    甲子夜話

    南方熊楠の随筆:十二支考 虎に関する史話と伝説民俗(その40)
    それから前年柳田氏に借りて写し置いた『甲子夜話かっしやわ』一七に、旗下はたもとの一色熊蔵話しとて、「某といへる旗下人の領地にて、狼出て口あきて人に近づく、獣骨を立てたるを見、抜きやれば、明日一小児門外に棄てあり、何者と知れず、すこやかに見えしとて、憐れんでおのが子のごとく養ひ、成長後嗣子とせり、もとより子なかりしを知りて、何方いずかたよりか奪ひ来りしとみゆ、狼つれ来りし証は、肩尖かたさきに歯痕あり、子孫に連綿と勤めおるが、肩には歯痕ごとき物あり」と載す。

    南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その2)
    これよりふるった珍法は『甲子夜話』十一に出で平戸ひらどで兎が麦畑を害するを避けんとて小さき札に狐のわざと兎が申すと書く、狐これを見て怒りて兎を責むるを恐れ兎害を止めると農夫伝え行う、この札立つれば兎難必ずやむは不思議だとある。

    南方熊楠の随筆:十二支考 兎に関する民俗と伝説(その4)
    文政元年より毎年二月と九月に長崎奉行兎狩に託して人数押にんずおさえを行うた由(『甲子夜話』六四)、いずれそれが済んだ後で一盃飲んだのでしょう。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その24)
    支那やインドで竜王を拝して雨を乞うたはおもにこれに因ったので、それよりいて諸般の天象を竜の所為しわざとしたのは、例せば『武江年表』に、元文二年四月二十五日外山とやまの辺より竜出て、馬場下より早稲田町通りを巻き、人家等損ずとあるは、明らかに旋風で、『新著聞集』十八篇高知で大竜家を破ったとか、『甲子夜話』三十四江戸大風中竜を見たなど、いずれも竜巻を虚張こちょうしたのだ。

    南方熊楠の随筆:十二支考 田原藤太竜宮入りの話(その34)
    甲子夜話』二十六に年一、二度佐渡より越後へ鹿が渡海するに先游ぐものくびと脊のみ見え、後なるはその頷を前の鹿の尾の上にもたげて游ぎ数十続く、遠望には大竜海を游ぐのごとく見ゆとある、今も熊野の漁夫海上に何故と知らず※(「魚+賁」、第4水準2-93-84)おおえびなどの魚群無数続き游ぎ、船坐るかと怖れげ帰る事ありとか、


    南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その2)
    本草綱目』には巨蟒きょぼう一名鱗蛇りんじゃと見えて、さきに書いたごとく大蛇様で四足ある大蜥蜴だが、〈蟒は蛇の最も大なるもの、故に王蛇という〉といい(『甲子夜話』註)、諸書特にその大きさを記して四足ありと言わぬを見れば、アジアの暖地に数種あるピゾン属の諸大蛇、また時にはその他諸蛇の甚だしく成長したのを総括した名らしい。

    南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その5)
    大和本草』に四国に狐なしというが『続沙石集』に四国で狐に取り付かれた話を載す。いずれが間違って居るかしら、『甲子夜話』に壱岐いき※(「鼬」の「由」に代えて「晏」、第3水準1-94-84)うごろもちなしとある。

    南方熊楠の随筆:十二支考 蛇に関する民俗と伝説(その12)
    三河国池鯉鮒ちりふ大明神の守符、蛇の害を避く。その氏子の住所は蛇なく、他の神の氏子の住所は、わずかにこみちを隔つも蛇棲む。たといその境まじるもかくのごとし(『甲子夜話』続篇八〇)。

    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その10)
    甲子夜話』続編七六、両国橋見せ物に六足馬えがける看板を掛く、予人をして視せしむるに、足六なるにあらず、図のごとく真に六脚あるにあらず、前蹄に添いて、わずかに足末を生ぜるまでなり、羽州三春に産せりという(第四図[#図省略])とあるが、その図を見れば、いかにも人の六指に対して六足ともいうべき畸形らしく、第二図と比べば、馬の祖先の多趾なると様子が異なるを知らん。

    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その18)
    さて人間に催姙の薬あらば、畜類にもそんな物あるべしとの想像から出たものか、肥前平戸より三里ほどなる生月島いけづきじまに、古来牧馬場あり、かつて頼朝の名乗生嘱いけずきを出すという。里伝にこの島に名馬草を産し、牝馬これを食えば必ず名馬を産めど、絶壁間に生える故馬これを求めて往々墜ちて死すと(『甲子夜話』続編五七)。その前文から推すにその処いと危険で馬しばしば足を失するより出た話らしい。

    南方熊楠の随筆:十二支考 馬に関する民俗と伝説(その21)
    この篇発端に、梵授王が命を救われた智馬に半国を分ち与えんとした事を述べたが、支那でも〈人難を免るるは、その死なり、これを葬り帷を以て衾と為す、馬功あれば、ひと り忘るべからず、またいわんや人においてをや〉(『淮南子』)といった。従って名馬を廟祀びょうしし、封官し、記念のために町を建てた外国の例を初めの項に出した。本邦でも秀吉の馬塚(『摂陽群談』九)、吉宗の馬像(『甲子夜話』五一)、その他例多く、馬頭観音としてまつったのも少なからぬ。


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