馬に関する民俗と伝説(その21)

馬に関する民俗と伝説インデックス

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  • (付)白馬節会について

  • (名称5)



     支那の名馬は、周穆王ぼくおうの八駿、その名は赤驥、盗驪、白義、踰輪、山子、渠黄、華※[#「馬+(「堊」の「王」に代えて「田」)、358-5]、緑耳で、漢文帝の九逸は、浮雲、赤電、絶群、逸驃、紫燕、緑※(「虫+璃のつくり」、第3水準1-91-62)、竜子、※(「馬+隣のつくり」、第3水準1-94-19)駒、絶塵だ、前者は毛色、後者は動作を主に名の因とした。その他項羽すい呂布りょふの赤兎、張飛の玉追、遠※(「豈+頁」、第3水準1-94-1)の飛燕、梁武帝の照殿玉獅子等、なお多かるべし。本邦には「垂仁すいにん紀」に足往あゆきてふ名の犬見ゆるに、名馬に特号あるを見ず。

    遥か後に藤原広嗣が宰府で一声に七度嘶くを聞き尋ね、高直たかねで買い取った馬は初め四のくいに登り立ち、数日後には四足を縮めて一の杭に立ち、よく主人を乗せ走りて毎日午前は筑紫午後は都で勤務せしめ、時の間に千五百里通うたという(『松浦廟宮本縁起』と『古今著聞集』第三十)。

    それほどの駿馬だにただ竜馬のうわさされしのみで、別段その号は伝わらず。おもうに小児が飼犬を単に白とか赤とか呼ぶごとく、その頃まで天斑駒あまのぶちごま甲斐かいの黒駒など生処と毛色もて呼ぶに過ぎなかったろう。その後とても信州井上より後白河院へ奉りし馬を井上黒、武州河越より平知盛たいらのとももりに進ぜしを河越黒、余りに黒い故磨墨するすみ、馬をも人をもいければ※(「口+妾」、第4水準2-4-1)いけずきなど、多く毛色産地気質等に拠って名づけたので、津国の浪速なにわの事か法ならぬ。同じのり物ながら妓女と同名の馬ありし例も知らぬ。ただし『遊女記』に小馬てふ妓名を出す。

     インドで顕著なは※(「牛+建」、第3水準1-87-71)陟馬カンタテム王で悉達しった太子これに乗って宮を脱れ出た。前生かつて天帝釈だった由(『六度集経』八)。欧州で馬に名づくる事よほど古く、ジケアてふ牝馬アリストテレスに録され、アレキサンダー王の乗馬ブケファルスについては伝説の項に述べた。古ローマおよびその領地の上流の家では厩の間ごとに住みいる馬の名を掲げその札今に残るあり、女郎部屋の源氏名札も同じく残る。

    このついでに言う、英船長サリスの『平戸日記』慶長十八年(一六一三)の条に、六月二十一日平戸王女優数輩を従え英船に入った由記し、彼らは島より島へ渡りて演芸し外題の異なるに従い衣裳を替える。趣向は専らいくさと恋なり、みな一主人にしたがってその営利のために働く、もし主人過分にもうけてうったえらるれば死刑に逢う。

    最も有勢の貴人も旅中宿屋に彼を招き価を定めて女優を召し酌をさせ、またこれを御するを恥じず。妓輩の主人生時は貴人とを成すが、一旦命しゅうすれば最卑民中にすらとどまるを許されず、口に藁作りの※(「革+橿のつくり」、第3水準1-93-81)たづなませ、死んだ時のままの衣服で町中引きずり、野中の掃溜はきだめへ捨て鶏犬のつつ※(「口+敢」、第3水準1-15-19)くらうに任すと書いた、眼前の見聞を留めたもの故事実と見える。妓家の主人をクツワと呼ぶはこんなところから起ったでもあろう。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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