(民俗(1)1)
民俗 (1)
有史前の民は多く野馬を狩って食用した。そのうち往々後日の儲えに飼い置くにつけその性馴らし使うに堪えたものと知れ、騎り試みるに快活に用を弁ずるから、乗るも牽かせも負わせもして、ついに人間社会大必要の具となった。今日道路改善汽車発達して騎馬の必要昔日のごとくならねど、馬全廃という日はちょっと来るまい。『呂氏春秋』に寒衰御を始む。
『荘子』に黄帝方明を御とし襄城の野に至る。『武経』に黄帝軍の両翼に騎兵を備うる事あり。古カルデア人は初めオナッガを捕え馴らして戦車を牽かせたが、のち中央アジアより馬入るに及び馬具を附けて使うた。ただしそれは上流間のみに行われ一汎には軍用されなんだ。邦訳『旧約全書』ヨブ記に、軍馬が「喇叭の鳴るごとにハーハーと言い、遠くより戦を嗅ぎ付け」と出づ。
ジスレリの『文界奇観』九版三巻に、欧州で出した『聖書』の翻訳麁鄙で、まるで洒落本を読むごとく怪しからぬ例を多く出しいるが、たとい原文にそうあったとても典雅荘厳が肝心で、笑本の文句似寄りの語などは念に念を入れて吟味すべき大宗教の経典の日本訳に、ハーハーなどとそのまま出たは無邪気のようでも無智のようでもある。
ペルシア、ギリシア、ローマ人も馬を重用し、ギリシア人殊に善く騎り馬上の競技を好みしが、勒とありて鐙なく、裸馬や布皮被せた馬に乗った。プリニウス説にベレロフォン始めて乗馬し、ペレツロニウス王と鞍と創製し、ケンタウリが騎兵の初めで、フリギヤ人は二馬、エリクトニウスは四馬に戦車を牽かせ始めたと。
アーズアンいわく、モセスの書に拠ればフリギヤ人等より迥か前エジプト人が戦車を用いたが、馬幾疋附けたか知れずと。ピエロッチいわく、『聖書』に馬を記せる例は、まずヨシュア記に、カナアン軍多くの車馬もてメロム水辺に陣せるを、ヨシュア上帝の命に随い敵馬の足筋を截り、敵車を焼きてこれを破ると載す、元来イスレール人は山国に住んだから馬の用多からず、モセスの制条に王者馬を多く得んとすべからず、また馬を多く得んために民を率いてエジプトに帰るべからずとあり、しかるにダビットに至り、ゾバ王の千車を獲た時、百車だけの馬を残し留めた、
ソロモンの朝ヘブリウ人の持ち馬甚だ多くなりしは、列王紀略上にこの王戦車の馬の厩四千と騎兵一万二千を有りとあるので分る、またいわく王千四百戦車一万二千騎卒ありと、その後諸王馬を殖やす事盛んで予言者輩これを誚った事あり、今日もパレスチナのサラブレッド馬種の持ち主は、皆これをソロモン王の馬の嫡流と誇り示す、けだしヘブリウ人は古く馬を農業に使うた事、藁と大麦で飼った事、共に今のアラブ人に同じく、鈴を馬に附けた事また同じ、
『新約全書』に馬は見ゆれど、キリスト師弟乗馬した事見えず、またアブサロムやソロモンが騾に乗った事見ゆる、モセスが異種の畜を交わらしむるを禁じた制条を破ったようだが、今もパレスチナのアラブ人が多く騾を畜いながら馬驢を交わらしめてこれを作らず、隣郷より買い入るるより推さば、古ヘブリウ人も専ら騾を買って用いたらしい、パレスチナの古伝に、ヨセフその妻子を騾に乗せてエジプトに往かんとこれに鞍付くるうち騾が彼を蹴った。
その罰で永世騾はその父母子孫なく馬驢の間に生まれて一代で果て、また人に嫌われて他の諸畜ごとく主人の炉辺に近づけくれず、驢は『聖書』に不潔物とされ居るが馬がなかった世に専ら使い重んぜられ、古く驢と牛をせ耕すを禁じ(驢が力負けして疲れ弱りまた角で突かれる故)、モセスの制に七日目ごとに驢牛を息ますべしとあると。
back next
「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収