馬に関する民俗と伝説(その48)

馬に関する民俗と伝説インデックス

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         民俗 (2)

     第五図[#図省略]ボーラズは一から三箇までの石丸を皮で包み、皮か麻緒を編んだ長紐ながひもを付けたのをげて米駝鳥リーアなどにつると、たちまち紐が舞いからんで鳥が捕わる仕組みで、十六世紀に南米のガラニ人既にこれを用い、アルヘンチナのガウチョス人今日これを鉄砲よりも好み使う。

    パタゴニア人も以前は騎せずにこれを用いたが、今は馬上で使うようになったので、昔から使うたものの、馬入りてからその活用以前に増して奏功す。サー・ジョン・エヴァンス説に、スコットランドとアイルランドの有史前民がかようの物を使うた証拠品ありと。しかしその他に東半球の人がかかる器を用いた例は少ないと見え、十二年前英国のアリソン博士が世界中のからさお[#「木+倍のつくり」、416-11]を研究して『※[#「木+倍のつくり」、416-12]およびその種類』を著わし、なお続編を出すとて予に色々の問条を送った内に、パタゴニア人は※[#「木+倍のつくり」、416-13]を武具とすとあった。

    よく尋ねるとボーラズをしたんで、ボ様の物が英国にないので遠く多少の似た点がある故※[#「木+倍のつくり」、416-14]を当てたのだが、実は日本で言おうなら、※[#「木+倍のつくり」、416-14]よりは鎖鎌くさりがまとともに使う分銅ふんどうが一番ボーラズに似居る。

    かつて、陸軍中将押上森蔵氏に通信して、鉄砲の始めは必ずしも一地方に限らにゃならぬほど込み入った物でなしと論じたついでに、日本と南米と昔一向交通なかったのに、すこぶる相似た分銅とボーラズが各自創製使用されたがそのき比例じゃと述べたが、氏はこれを『歴史地理』へ抄載した。

    後に藤沢氏の『伝説』播磨の巻を見ると、かの地の古記を引いて、享禄三年(欧州人始めて日本へ渡来した年より十三年前)五月十一日、飾磨しかま郡増位山随願寺の会式えしきで僧俗集まり宴たけなわなる時、薬師寺のちご小弁は手振てぶりに、桜木の小猿という児は詩歌で座興を助けるうち争論起り小猿打たる、平生この美童に愛着した寛憲という僧小猿を伴れて立ち退いたが、小猿ついに水死し、それより山の俗衆と薬師寺と闘争し、双方八十二人死す、英賀えがの城より和平を扱い武士を遣わす時持たせた武具の中に鎖鎌十本と載す。因っていよいよ分銅は、ボーラズと各別に出来たと知った。

     なお馬が新世界に入ってより生じた異習を一つ挙げんに、オエンの『マスクワキー印甸人インジアンの民俗』に馬踊りてふ条あり、いわく商客馬多く牽き来ってインジアンどもそのうちに欲しくてたまらぬ良馬を見付ければ、各その所望の馬を指し讃えて何と踊ってくれぬかと尋ねる。商客うべなえば彼ら大いに火を焚きかたぬぎてめぐり坐り煙草を吸う。

    商客一同むちを執りてその周囲を踊り廻り、その肩と背をはげしくむちうつも彼ら平気で何処どこに風吹くかという体で喫烟し、時にしずかに談話す。十五分三十分打っても声立つる者なくば、各商約束の馬をそのために笞うたれたインジアンに与う。さて彼らきずに脂塗り、襦袢じゅばんを着その馬を乗り廻してその勇に誇る。この行事中余りに劇しく笞うたれて辛抱ならず、用事にかこつけ退き去るも構わねど、もし眼を※(「目+旬」、第3水準1-88-80)うごかすなどすこしでも痛みに堪え得ぬしるしを見せると大いに嘲られ殊に婦女に卑しまると。

    日本紀』七に、八坂入彦皇子やさかのいりびこのみこむすめ弟媛おとひめは無類飛び切りの佳人なり、その再従兄に当らせたもう景行帝その由きこし召して、遠くその家にみゆきせしに、恥じて竹林やぶに隠れたので、帝くくりの宮にいまし鯉多く放ち遊びたもう。その鯉を見たさに媛密かに来たところを留め召したもう。

    しかるにこの媛常人と異なり、〈妾ひととなり交接の道を欲せず、今皇命の威にえずして、暫く帷幕おおとのの中に納む、しかるに意に快からざるところ、云々〉と辞してその姉をすすめ参らせた、それが成務帝の御母だとある。『夫木集抄』三十、読人よみびと知らず「いとねたし泳の宮の池にすむ鯉故人に欺かれぬる」とはこれを詠んだのじゃ。それと等しくて、マスクワキーインジアンも馬なかった昔は、かかる痛い目をせずに済んだのである。

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    「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収

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