(民俗(2)1)
民俗 (2)
第五図[#図省略]ボーラズは一から三箇までの石丸を皮で包み、皮か麻緒を編んだ長紐を付けたのを抛げて米駝鳥などに中つると、たちまち紐が舞い絡んで鳥が捕わる仕組みで、十六世紀に南米のガラニ人既にこれを用い、アルヘンチナのガウチョス人今日これを鉄砲よりも好み使う。
パタゴニア人も以前は騎せずにこれを用いたが、今は馬上で使うようになったので、昔から使うたものの、馬入りてからその活用以前に増して奏功す。サー・ジョン・エヴァンス説に、スコットランドとアイルランドの有史前民がかようの物を使うた証拠品ありと。しかしその他に東半球の人がかかる器を用いた例は少ないと見え、十二年前英国のアリソン博士が世界中の※[#「木+倍のつくり」、416-11]を研究して『※[#「木+倍のつくり」、416-12]およびその種類』を著わし、なお続編を出すとて予に色々の問条を送った内に、パタゴニア人は※[#「木+倍のつくり」、416-13]を武具とすとあった。
よく尋ねるとボーラズを指したんで、ボ様の物が英国にないので遠く多少の似た点がある故※[#「木+倍のつくり」、416-14]を当てたのだが、実は日本で言おうなら、※[#「木+倍のつくり」、416-14]よりは鎖鎌とともに使う分銅が一番ボーラズに似居る。
かつて、陸軍中将押上森蔵氏に通信して、鉄砲の始めは必ずしも一地方に限らにゃならぬほど込み入った物でなしと論じたついでに、日本と南米と昔一向交通なかったのに、すこぶる相似た分銅とボーラズが各自創製使用されたがその好き比例じゃと述べたが、氏はこれを『歴史地理』へ抄載した。
後に藤沢氏の『伝説』播磨の巻を見ると、かの地の古記を引いて、享禄三年(欧州人始めて日本へ渡来した年より十三年前)五月十一日、飾磨郡増位山随願寺の会式で僧俗集まり宴酣なる時、薬師寺の児小弁は手振に、桜木の小猿という児は詩歌で座興を助けるうち争論起り小猿打たる、平生この美童に愛着した寛憲という僧小猿を伴れて立ち退いたが、小猿ついに水死し、それより山の俗衆と薬師寺と闘争し、双方八十二人死す、英賀の城より和平を扱い武士を遣わす時持たせた武具の中に鎖鎌十本と載す。因っていよいよ分銅は、ボーラズと各別に出来たと知った。
なお馬が新世界に入ってより生じた異習を一つ挙げんに、オエンの『マスクワキー印甸人の民俗』に馬踊りてふ条あり、いわく商客馬多く牽き来ってインジアンどもそのうちに欲しくて堪らぬ良馬を見付ければ、各その所望の馬を指し讃えて何と踊ってくれぬかと尋ねる。商客諾えば彼ら大いに火を焚き袒ぎて繞り坐り煙草を吸う。
商客一同鞭を執りてその周囲を踊り廻り、その肩と背を劇しく笞うつも彼ら平気で何処に風吹くかという体で喫烟し、時に徐かに談話す。十五分三十分打っても声立つる者なくば、各商約束の馬をそのために笞うたれたインジアンに与う。さて彼ら創に脂塗り、襦袢を着その馬を乗り廻してその勇に誇る。この行事中余りに劇しく笞うたれて辛抱ならず、用事に託け退き去るも構わねど、もし眼をかすなど些でも痛みに堪え得ぬ徴を見せると大いに嘲られ殊に婦女に卑しまると。
『日本紀』七に、八坂入彦皇子の女弟媛は無類飛び切りの佳人なり、その再従兄に当らせたもう景行帝その由聞し召して、遠くその家に幸せしに、恥じて竹林に隠れたので、帝泳の宮に居し鯉多く放ち遊びたもう。その鯉を見たさに媛密かに来たところを留め召したもう。
しかるにこの媛常人と異なり、〈妾性交接の道を欲せず、今皇命の威に勝えずして、暫く帷幕の中に納む、しかるに意に快からざるところ、云々〉と辞してその姉を薦め参らせた、それが成務帝の御母だとある。『夫木集抄』三十、読人知らず「いとねたし泳の宮の池にすむ鯉故人に欺かれぬる」とはこれを詠んだのじゃ。それと等しくて、マスクワキーインジアンも馬なかった昔は、かかる痛い目をせずに済んだのである。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収