(民俗(1)4)
プリニウスいわくケンタウリ騎兵を初むと。これはギリシアのテッサリアの山林に住んだ蛮民全身毛深く時に里邑を犯し婦女を掠めたが、山中に住み馴れただけあって善く菜物を識った。スミスの『希臘人伝神誌字彙』一八四四年版六六六頁に拠れば、ケンタウリは牛殺しの義で、普通に前体は人、後身は馬という畸形で男と牝馬の間種とす。よほど昔ギリシア中でテッサリアの山民のみ騎馬を善くした時、他の諸民これを半人半馬の異物と思うた。その実テッサリア人毎も騎馬して牛を追い捕うる事、今の南米の騎馬牧人そのままだったらしく、紀元前四世紀、既にこれに象った星宿殺牛星の名書き留めあれば、かかる誤解はよほど以前に生じいたのだ。
スペイン人が初めて西大陸へ討ち入った時、土人騎兵を半人半畜の神と心得ひたすら恐れ入り、その為すが任にして亡ぼされたは衆人の知るところだ。それほど恐れ入った馬も暫く見馴るれば何ともなくなり、今度は南北米の土人ほど荒馬乗りの上手はなしというほどその業に熟達し、ダーウィンの『探検航行記』に南米土人が幼子を抱え裸で裸馬を擁して走り去る状を記し、真に古ギリシアの大勇士の振舞いそのままだと言い居る。またバートンは北米のインジアンが沙漠中に天幕と馬に資りて生活するよりアラビア人と同似の世態を発生した由を述べた。したがって西大陸に新規現出した馬に関する習俗が少なからぬ。
たとえばパタゴニアのテフェルチ人は、牝牛馬の腹を割き胃を取り出しその跡まだ暖かなところへ新産児を入れ置き、いわくこうするとその児後年騎馬の達人となると、この輩以前は徒歩したが百年ほど前北方から馬を伝え不断騎りいてほとんど足で歩む能わず、また人死すれば馬と犬を殺し以前は乗馬に大必要な革轡を本人の屍と合葬した(プリッチャード『巴太瓦尼亜貫通記』六章)。
旧世界でも馬を重んずる諸民が馬を殺し馬具とともに従葬した例多く、南船北馬の譬えのとおり、蒙古人など沍寒烈風断えざる冬中騎して三千マイルを行きていささか障らぬに、一夜地上に臥さば華奢に育った檀那衆ごとく極めて風引きやすく、十五また二十マイルも徒歩すれば疲労言句に絶す(プルシャワルスキの『蒙古タングット国および北蔵寒境』英訳一巻六一頁)。その蒙古人と万里隔絶のパタゴニア人も同一の性質風習を具うるに至れるを見て同因多くは同果を結ぶと知れ。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収