(民俗(1)3)
ギリシアの古美術品に飛馬ペガソスを画くに必ず翼あり。それから思い付いてリンネウスが飛馬竜(ペガスス・ドラコニス)と命名したまま今も通用する小魚、和名はウミテング、その形怪異で牛若丸の対手としていつも負けている烏天狗や応竜の日本画に似、英語で海竜という。予かつて生きた品を獲たが暫くして死んだからその活態を知らぬ。
海馬、和名はタツノオトシゴまた竜の駒、蛟の子など呼び、その頭馬に酷だ似、左右の眼カメレオン同前別々に動く。このもの海藻や珊瑚類に、尾を捲き付くる体画竜のごとく性至って子を愛し、雄の尾の裏または腹下に卵を懐く嚢または皮あって、その内で孵った子供が自活し得るようになって始めて出で去る。昔人この事に気付いたものか、和漢とも雌雄の海馬を握れば安産すといい、その母愛さるればその子抱かるてふ理屈に拠ってか、予の宅前に棲む人はこれを夫婦敬愛の守りとしている。
また予その拠り所を知らねど、仏人コンスタンチンの『熱帯の自然篇』に、艶道の女神ヴェヌスこの魚を愛すと載す。日本や英国の産は数寸を出ねど、熱地の海のは二フィートに至る。
楊枝魚和歌山で畳針、海草郡下津浦でニシドチ、田辺辺で竜宮の使いというは海馬と近属ながら尾に捲く力がない。雄の腹下や尾裏に子を懐く事海馬に同じ(
長尾驢など濠州産の諸獣も腹の嚢中に子を育つるが、海馬などと異なり雌がその役を勤める)。楊枝魚多くは海産だが、和歌山などには河に住むもある。かつて高野山の宝物に深沙竜王と札打ちあったは大楊枝魚で、その王子とあったは小さき海馬だった。
インドの経典に、馬頭鬼ダジアンス海中に霊香を守り常紐天乳海中に馬身を現ずという。『無明羅刹経』に、海渚中の神馬王八万四千の諸毛長く諸動物これに取り着いて助命さる。
『根本説一切有部毘奈耶』に、天馬婆羅訶海より出て岸辺の香稲を食う。この馬五百商人を尾と鬣に取り着かせ海を渡りてその難を脱れしめたとある。話の和訳は『今昔物語』や『宇治拾遺』に出づ。『大乗荘厳宝王経』にこの聖馬王は観音の化身とある。
邦俗ホンダワラてふ藻を神馬草というは、その波に揺れながら枝葉間に諸生物を安住せしむる状を件の神馬王の長毛に比して学僧輩が名づけたのかも知れぬ。さなくとも長きもの神馬の尾髪、神子の袖、上臈のかもじと『尤の草紙』に見る通り、昔は神の乗り物として社内に飼う馬の毛を一切截らなんだ。それを件の藻に思い寄せて神馬草と呼んだでもあろうか。ただし(四)〔性質〕に述べた通りこの藻で馬を飼った故名づくてふ説もある。この藻の中に海馬や楊枝魚多く住む。
さて和漢アラビヤ等に竜が海より出で浜辺の馬に駿足の竜駒を生ます談多い。馬属ならぬものが馬を孕ますはずなければ、これは人知れず野馬か半野馬が孕ますに相違ないが、海獣中遠眼に馬らしく見ゆる物もあり。また海中に上述の飛馬竜、深沙竜王、竜宮の使いなど呼ばるる魚あり。殊に海馬は上記諸名のほか竜宮の駒(また竜の駒、『尤の草紙』に迅き物雷神の乗るという竜の駒)、馬王海ウマ等の和名あり。ヴェネチアでも竜(ドラコネ)と呼ぶほど馬にも竜にも酷似る(一六〇四年フランクフルト版ゲスネル『動物全誌』四巻、四一四頁)。
故に陸上にあらゆる物は必ず海中にもその偶ありてふ古人の了簡(テンネント『錫蘭博物志』七三頁)から推せば、これら諸魚の父たる海中の竜が、能く馬を孕ますほど親縁のものたるは、その稚子また眷族なる件の諸魚が半竜半馬の相を具うるので照々たりといわん。濠州海の海馬の一種は、殊にこの辺の消息を明らかにする。
『本草綱目』蚕の条などに竜馬同気と云々種々理由あるべきも、まずは海馬楊枝魚海天狗など竜馬折衷の魚が竜棲むてふなる海中に少なからぬが一の主因だろう。漢の王充の『論衡』六に世俗竜の象を画くに馬首蛇尾なりと出で、馬首蛇尾は取りも直さず海馬の恰好だ。唐の不空訳『大雲輪請雨経』上に馬形竜王あり。竜てふ想像動物は極めて多因で諸多の想像と実物に因って混成したものなるはさきに詳論したつもりだが、馬と竜との関係について何にも説かなんだから今飛馬譚のついでにこれを論じ置く。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収