(名称2)
精しい古語彙が眼前にないから確言は出来ぬが、独語にプファールデン(嘶く)てふ動詞があったと憶う。果してしからばミュラーがアリヤ種で一番偉いように言った独語のプファールト、蘭語のパールト、いずれも支那の馬また恐らくはアラブのヒサーン同様、嘶声を採って馬の名としたのでなかろうか。
わが邦の腰抜け学者輩が予がかかる言を吐くを聞いては、人もあろうに博言学の開山ミュラー先生を難ずると、それはそれはと大不敬罪でも犯したように譏るじゃろうが、孟子の曰く、大人に説くにすなわちこれを藐じその魏々然たるを視るなかれと、予は三十歳ならぬ内に、蘭国挙げて許した支那学の大親方グスタウ・シュレッケルと学論して黄色な水を吐かせ、手筆の屈伏状を取って今に日本の誇りと保存し居るほど故、ミュラーの幽霊ぐらい馬糞とも思わぬ。
これほどの英気あらばこそ錦城館のお富に惚れられるのだと自惚れ置く。それからダニール・ウィルソンいわく、新世界へ欧人移り入りて旧世界でかつて見ざる格別の異物を睹た時、その鳴き声を擬て名を付けた例多し。アイ(獣の名)、カラカラ、ホイプールウィル、キタワケ(いずれも鳥の名)等のごとし。
しかるに新世界にあり来ったインジヤンはこれと反対に、欧人将来の諸動物をその性質動作等に拠って名づけた。例せば馬のチェロキー名サウクイリ(小荷駄運び)、デラウェヤ名ナナヤンゲス(背負い運び獣)、チペワ名パイバイジコグンジ(一蹄獣)、またダコタ人は従前物を負う畜ただ犬のみあったから、馬をスンカワカン(霊犬すなわち不思議に荷を負う畜)と呼ぶがごとし(一八六二年版『有史前の人』一巻七二頁)。
これ後世までもアリヤ種の言語かえって動物の声を擬て名とする事盛んに、いわゆる劣等種たる銅色人が初めて馬を見て名を付くるに、専らその性質に拠り決してその声を擬なんだ確証で、かかる反証が少なくとも二十年前に出でいたを知らぬ顔で、何がなアリヤ種を持ち上げんと勝手な言のみ吐いたミュラーは、時代後れに今日までもわが邦一派の学者が尊敬するほど真面目な人物でなかったと知る。
バートンはアラビヤに馬に関する名目多いと述べたが、支那人も古くから随分馬に注意したは、『爾雅』を始め字書類を見て判る。前足皆白い馬を、後足皆白きを※[#「栩のつくり+句」、354-8]、前右足白きは啓、前左足白きは※[#「足へん+奇」、354-8]、後右足白きは驤、後左足白きは※[#「馬/廾」、354-8]などなかなか小むつかしく分別命名しある。わが邦も毛色もて馬を呼ぶに雑多の称あり。古来苦辛してこれを漢名に当てたは『古今要覧稿』巻五一五から五二四までに見ゆ。とばかりでは面白うないから、何か珍説を申そう。
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「馬に関する民俗と伝説」は『十二支考〈上〉』 (岩波文庫)に所収